日本文学の世界

井伏鱒二「かきつばた」平穏な生活を願う庶民の祈り

井伏鱒二「かきつばた」あらすじと感想と考察

井伏鱒二「かきつばた」読了。

本作「かきつばた」は、1951年(昭和26年)6月『中央公論文芸特集』に発表された短篇小説である(表題は「カキツバタ」だった)。

この年、著者は53歳だった。

作品集としては、1951年(昭和26年)12月に池田書店から刊行された『かきつばた』に収録されている。

割れた水甕に投影された福山の街並み

本作「かきつばた」は、敗戦前後の広島を舞台とした見聞記である。

まるでルポルタージュを記すように、主人公の目を通して描かれる町の人々の様子が、敗戦直後の混乱を描き出している。

余計な感情移入がなく、見たり聞いたりしたことを、できるだけ淡々とした文章で綴ることによって、空襲の惨状を伝えようとしているかのようだ。

小説として、物足りないと言えば物足りないかもしれないが、人々から距離を置くことによって、見えてくるものもある。

むしろ、一人の庶民となりきっているからこそ、主人公は、必要以上の感情を挟み込むことができなかったのかもしれない。

まずは、生き延びることに精一杯という、そんな時代だったのだから。

福山駅前の小林旅館の庭にある伊部焼きの大きな水甕が、一つの象徴として登場している。

「あの水甕、僕の村に疎開させないか」私はおかみさんに云った。「僕が保管しておいてあげようか。今日は、荷車を頼むついでがあるからね、ちょうど幸いだ」「水甕なんか、疎開させなくっても結構ですよ」とおかみさんが云った。「空襲なんか、あるもんですか。うちじゃあ、ただ疎開命令が出たから、人間だけ疎開するつもりです」(井伏鱒二「かきつばた」)

8月6日の昼過ぎ、福山の人々は、広島市内に原子爆弾が投下されたことを、まだ知らなかった。

旅館のおかみさんは「空襲なんか、あるもんですか」と言ったが、広島が焼けた翌々日(8月8日)に、福山の町も空襲を受ける。

天守閣の焼け跡を見るために福山へ行った帰り、小林旅館の焼け跡へ行くと、水甕は真二つに割れていて、秋十月の下旬、主人公が岩国町の河上徹太郎のところへ行くときまで、そのまま放置されていたという。

一つの水甕に、福山の町の崩壊ぶりが投影されているものだろう。

原爆被害の惨状は、間もなく、主人公の村にも伝わってきて、隣り村で医者をしている田和さんは、原爆被害を受けた患者を診て「義勇兵の病気」とか「不思議な苦しみ方をする病気」とか「治療法のない病気」などと言っていた。

隣村の「義勇兵の病気」の患者たちは、およそ二週間ばかりのうちに、亡くなる者は亡くなった。生き残った者は、そのころ広島新聞に発表された療法によってお灸をすえた。(井伏鱒二「かきつばた」)

この小説の優れたところは、空襲下の地方で流布した伝承が、収録されているところかもしれない。

これもまた、混乱する庶民の一つの姿だっただろうから。

神辺町まで貯蔵物資の配給を受け取りに行くエピソードもまた、敗戦直後の地方都市の混乱を伝えるものだ。

役所が役所として機能していないため、物資配給の段取りはまるで出鱈目で、混乱に乗じて泥棒が横行している。

露天積みの印刷紙を盗んで車に積んで行く男が、重くて曳けないので「頼む、頼む」と云った。その車の後を押してやり、「慾張りめ」と叱りつけて追いやってる者がいた。盗んだロールの紙を車に一と巻積んで、子供に後押しさせながら帰って行く者もいた。(井伏鱒二「かきつばた」)

戦争を主導した軍の権威は失われ、指導者を失った庶民だけが、あちらこちらへと振り回されている。

もちろん、小説の中に、そんな説明は必要ない。

読者は、混乱する人々の姿から、戦争に負けた国の悲しい末路をつかみ取ればいい。

カキツバタは庶民の祈りの象徴だった

後半は、戦争がよりクローズアップして捉えられている。

福山市郊外へ疎開している木内君の家の池で、主人公は若い女の遺体を発見する。

女の遺体の近くには、カキツバタの花が咲いていた。

「おうい、正彦。お前、あれを、昨日は気がつかなかったのか」(略)「昨日は、まだ浮いてなかったようです。──お父さん、それを見てるんですか。──気持、悪くないですか」「おい正彦、カキツバタが咲いておるよ。妙だなあ、どうしたというんだろう。おい正彦、カキツバタが咲いておるよ」(井伏鱒二「かきつばた」)

通常、カキツバタは5月から6月に咲く花だから、盛夏の8月中旬過ぎに咲くことはない。

やがて、警察が来て、遺体を引きとっていく。

「おい、もう池を見てもいいよ。窓を開けた。引取人が来て、運んで行ったからね」「他殺か、自殺か」「半分ほど気違いの娘だったそうだ。広島の工場で半分気違いになって、それから空襲に遭って福山に帰って来て、その日、また空襲に遭ったそうだ。踏んだり蹴ったりだね」(井伏鱒二「かきつばた」)

「踏んだり蹴ったりだね」という木内君の言葉が、庶民の声を代表するものだっただろう。

広島で原爆に遭い、逃げてきた福山でまた空襲に遭った若い女は、戦争で命を失ったすべての庶民を象徴する戦争被害者である。

遺体の横にあった狂い咲きのカキツバタは、若い女の怨念や怒り、絶望を象徴するものだったのだろうか。

僕は、犠牲者を悼む祈りの花と読みたい。

ただ当たり前で平穏な生活を願う庶民の切実なる祈り。

いや、もしかすると、それは、戦争が終わって咲いた、庶民の希望だったのかもしれないけれど。

前半の見聞記で、幅広く庶民を見つめた主人公の眼が、後半は、水死した女の遺体を通して幅広く戦争を見つめている。

その構図に引き込まれた。

作品名:かきつばた
著者:井伏鱒二
書名:かきつばた・無心状
発行:1994/07/01
出版社:新潮文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。