日本文学の世界

山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」おかしくて悲しいサラリーマン文学

山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」おかしくて悲しいサラリーマン文学

山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」読了。

本作「江分利満氏の優雅な生活」は、1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて『婦人画報』に連載された長編小説である。

単行本は、1963年(昭和38年)2月、文藝春秋新社から刊行された。

この年、著者は38歳だった。

なお、本作は、1962年(昭和37年)下半期の直木賞を受賞している。

「戦争文学」と「サラリーマン文学」

昭和一桁世代と高度経済成長期というキーワードで語られることの多い本作だが、大きな観点としては「戦争文学」としての文脈と、「サラリーマン文学」としての文脈から読み解い
た方がおもしろい。

主人公<江分利満(えぶりまん)>の父は、戦時中の軍需産業で成功した実業家、いわゆる戦争成金で、麻布に豪邸を持つなど贅沢な暮らしを満喫するが、東京大空襲で全ての財産を失ってしまう。

一方、妻の<夏子>も東京大空襲を経験しており、そのときのトラウマのためか、戦後しばらくは精神的ダメージが大きい状態が続く。

戦後も、浮き沈みの激しい父の生き様を見て、江分利は「戦争で得られた贅沢な暮らし」よりも、「貧しくとも平和で穏やかな暮らし」に憧れるようになる。

社宅に住んで、暖房具を買い柱時計を買い、卓袱台を買い急須を買い、蠅帳や箒なんかも買って、35歳になって一通りの電気器具もそろったときに、江分利が「やっとここまできた」と感じたのは、ちょっと他の人には分りにくいかも知れない。オーバーないい方をすれば、江分利は遂に「戦争」と「戦争屋」とから手を切ったように感じたのである。(山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」)

戦争を声高に非難するというよりも、戦争に翻弄された庶民の生き様を淡々と綴ることで、著者は戦争に対する自身の姿勢を鮮明にしている。

戦時中に青春期を迎えた昭和一桁世代にとって、戦争は人生を語るに決して欠くことのできないキーワードなのだ。

「もはや戦後ではない」は、1956年(昭和31年)の言葉だけれど、本書を読んでいると、昭和30年代後半にあっても、まだ戦後は終わっていないのではないかと感じた。

街は復興したかもしれないけれど、庶民の心や人生に遺した傷痕は、決して癒えることがないからだ。

戦争というのは歴史の中ではなく、庶民の暮らしの中でこそ語られるテーマだと思った。

当たり前に暮らしている庶民の暮らしの中にこそ、戦争の傷痕は熱く生々しい。

この『江分利満氏の優雅な生活』を戦争文学ではないと、誰が言えるだろうか。

サラリーマン文学は、小市民文学であり、庶民文学である

本書で描かれているのは、江分利満という高度経済成長期に生きた平均的サラリーマンのささやかなライフスタイルである。

江分利は決して平凡な中年男性ということではなく、個性豊かなキャラクターであることに間違いないのだが、著者は、江分利満という一介のサラリーマンを徹底的に描くことで、日本の標準的なサラリーマン像をあぶり出そうとしているかのように思える。

会社生活だけではなく、家庭生活や家族の暮らし・生い立ちまでが、克明に再現されている。

現代の読者が『江分利満氏の優雅な生活』を読んで楽しく共感できるのは、この小説が、日本のサラリーマンの本質を的確に描き出しているからだろう。

江分利の家は前列、向って右端にあり、菱形の地所の張り出した部分に当るのでもっとも庭が広く、一番小さな家の庭に比較すると、ほぼ1坪広かった。彼はなんとなくいい気持であった。いや非常にいい気持であった。この気持は社宅住まい、アパート住まいを知らない人には、おそらく理解できないであろう。自分の家が隣の家より、ちょっと広い、庭がちょっと広いというのは、断然いい気持なのである。(山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」)

ユーモラスな江分利の言動は、現代サラリーマンの笑いを誘うと同時に涙をも誘う。

おかしいがゆえに悲しいというのが、日本のサラリーマンの真実なのだ。

時代を超えて泣けるところに、この物語の普遍性がある。

時代の上っ面をなぞっただけではない、サラリーマンの本質が見える。

江分利満は徹底的に庶民であり、小市民的なライフスタイルが、しっかりと根付いている。

日本のサラリーマンを描くことによって、必然的に日本の庶民像が浮かび上がっている。

つまり、サラリーマン文学の本質は、小市民文学であり、庶民文学なのだ。

一見、か弱い存在のように思われる庶民が、雑草のように逞しい生命力を持って、どっこい生きている。

庶民たる読者が本作から与えられるのは、庶民として生きることの勇気であり、庶民として死ぬことの誇りだろう。

だから、『江分利満氏の優雅な生活』は笑って泣きながら繰り返し読みたい、サラリーマン必読の物語である。

昭和が平成となり、平成が令和となっても、庶民の生命力は簡単に萎えたり衰えたりするものではないのだ。

卑屈にならずに生きていきたい。

そう思った。

書名:江分利満氏の優雅な生活
著者:山口瞳
発行:2009/11/10
出版社:ちくま文庫

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。