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伊藤ユキ子「紀行・アラン島のセーター」アラン伝説を辿ったファッション紀行

伊藤ユキ子「紀行・アラン島のセーター」読了。

本作「紀行・アラン島のセーター」は、1993年(平成5年)11月に晶文社から刊行された紀行エッセイである。

この年、著者は43歳だった。

アランセーターの歴史を辿ったファッション紀行

本作「紀行・アラン島のセーター」は、アランセーターの歴史を辿ったファッション紀行である。

アランセーターとは、アイルランドのアラン諸島で生産されるニットウェアのこと。

乳白色の生地に、浮彫りで文様がデザインされているのが大きな特徴となっている。

アランセーターの文様には様々な種類があるが、例えば「ケーブル柄(縄編み)」は、漁師の使うロープをモチーフとしており、大漁と安全を祈る気持ちが込められているなど、ひとつひとつの文様に意味がある。

「ハニーコム(蜂の巣)」「ダイヤモンド」「バスケット(籠)」「ジグザグ」「トレリス(格子)」「リンク(ダブルケーブル)」「トゥリー・オブ・ライフ(生命の木)」「アイリッシュ・モス(かのこ編み)」「ダブルジグザグ」「トリニティ/ブラックベリー」、、、(伊藤ユキ子「紀行・アラン島のセーター」)

かつて、アランセーターは、アイルランド西方の小さな島、アランの男たちの労働着だったという。

半農半漁の村の男たちは、畑を耕すときも魚を獲るときも、アランセーターを着て作業していたのだ。

一面にひろがる美しい浮き彫り模様。それらは、ただ模様というにとどまらず、家紋のような意味を持っていた。それぞれの家がそれぞれに、模様の組み合わせパターンを代々受け継いでいたのだ。だから、漁に出た男たちがよしんば怒り狂う海にのみこまれ、顔のない無残な溺死体で発見されたとしても、着ているセーターによってどこの誰かは確認することができる。(伊藤ユキ子「紀行・アラン島のセーター」)

本書は、アランセーターのロマンチックな由来を解き明かすため、現地を旅した女性の歴史紀行でもある。

アラン伝説を広めたのは、ニットウェアを販売していた企業だった

アランセーター伝説が注目されたのは、1934年度ベネチア映画祭最優秀外国映画賞を受賞した映画『マン・オブ・アラン』(邦題『アラン』)からだろう。

監督のロバート・フラハティは、アイルランドの代表的な劇作家 J・M・シングの随筆『アラン島』と戯曲『海へ騎りゆく人々』を読んで、この記録映画の制作意欲を掻き立てられたという。

しかし、現地を取材して回ると、はかばかしい答えが返ってこないことに、著者は気付く。

<家紋>、すなわち、家々に伝わるというアラン模様の組み合わせパターンについても、昔はあったのかもしれないけれどいまはない、自分はおばあちゃんやお母さんからも教わったことがない、とメアリーさんは言った。(伊藤ユキ子「紀行・アラン島のセーター」)

生粋の島っ子のニッターたちは、伝説の存在を否定する。

「ともかく、島の女たちはどんな模様でも編むことができたのよ。だって、それで稼いでいたんだもの」

取材を進めていくと、長い歴史を持つと思われていたアランセーターの発祥そのものが、実は作られた伝説であったことが明らかになる。

1,000年の歴史を持つと言われたアランセーターの発祥は、実際には19世紀後半頃で、島の人々の経済的自立を目的に、その技術が伝えられたものらしい。

せいぜい100年程度の歴史しかなかったのだ。

幻のアラン伝説を広めたのは、ニットウェアを販売していた企業である。

模様がなにかを象徴しているとか、溺死体を割り出す手立てであるとかは、もともとガンジーセーターにも言い伝えれてきたことである。それに「愛」という筋を一本通して印象度を高め、深めた伝説。キーヴァ氏は凄腕の実業家だったとともに、夢追い人のような面をもった人物でもあったように思う。(伊藤ユキ子「紀行・アラン島のセーター」)

1990年代初頭、観光地とはいえ、アラン島は、決して利便性の良い土地ではなかった。

著者は、アランセーターの販売に携わる多くの人と会うため、アラン島のみならず、アイルランドのダブリンやゴルウェイで、ニットウェアの専門店を訪れている。

アランセーターに関心がない人も、アイルランド紀行として、十分に楽しく読めるエッセイだと思った。

書名:紀行・アラン島のセーター
著者:伊藤ユキ子
発行:1993/11/30
出版社:晶文社

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青いバナナ
アンチトレンドな文学マニア。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。