日本文学の世界

源氏鶏太「青空娘」雲の向こう側には必ず青空がある、という希望の青春小説

源氏鶏太「青空娘」あらすじと感想と考察

源氏鶏太「青空娘」読了。

本作「青空娘」は、昭和31年(1956年)から翌32年(1957年)にかけて、雑誌「明星」に連載された長編小説である。

昭和32年(1957年)、若尾文子主演で映画化された。

継母と異父姉による壮絶ないじめ

主人公<小野有子>は、瀬戸内海に面した小さな村で、おじいさん・おばあさんと一緒に暮らしている。

一流企業の重役である父親が、浮気相手との間に作った子供が、彼女だった。

父親の家庭は東京にあり、そこには兄と姉と弟がいたが、複雑な事情を持つ彼女が、一緒に暮らすことはなかった。

彼女の本当の母親は、彼女が小さいうちに、「娘の前に二度と姿を現さない」という約束をさせられて、満州へ渡ったらしい。

もっとも、そんな事情を有子が知ったのは、彼女の祖母が亡くなる間際のことだった。

有子は空を見上げることが好きだった。殊に、青空を見上げていると、なんともいえないような力強さを覚えるのだ。あんな青空のような娘になりたい、と思う。たとえ、曇っている空を見上げても、彼女は、その空の彼方に、青空のあることを信じて疑わぬ娘になりたい、と努めていた。(源氏鶏太「青空娘」)

彼女が高校を卒業するのを待って、彼女は祖父と一緒に、東京の父親の家庭へと引き取られた。

しかし、そこで待っていたのは、継母と異母姉弟による壮絶ないじめだった。

家族ではなく、女中として扱われた有子は、特に、異母姉<照子>からは、徹底的にいじめ抜かれ、父親の留守の間に、家から追い出されてしまう。

故郷へ帰る途中に寄った大阪では、喫茶店のマダムに拾われ、生活は安定したかに見えたが、マダムの弟にレイプされそうになって、結局、瀬戸内海に面した田舎へと戻ってくる。

懐かしい小母さんと再会したとき、有子は、自分の母親が訪ねてきたことを知らさせる。

彼女の実の母親は生きていたのだ。

かつて担任だった<二見桂吉>とも再会し、有子の母親探しは、いよいよ本格化していくのだが、、、

雲の向こう側には、必ず青空があるという希望

本作「青空娘」は、恵まれない環境で成長した女の子が、最後には幸せを手に入れるという、ささやかなシンデレラストーリーの物語である。

全編を通してテーマとなっているのは、幼い頃に生き別れた実の母親探しで、生みの母親と再会したとき、彼女は平凡な幸せを手に入れる。

だから、母親と再会する最終局面までは、ほとんど曇り空の人生なのだが、その曇り空の向こうには、必ず青空があるものだと、彼女は信じている。

「しかし、今日まで、よくもそんな苦労に負けずにやって来てくれた」有子は、わざと、明るく微笑んでみせて、「だって、お父さま。あたしは、いつでも、どんな雨風の日にでも、その雲の彼方に青空があるのだ、と信じて来たんですもの」(源氏鶏太「青空娘」)

父親は「有子が、青空娘、だとしたら、わしは青空父になろう」と笑う。

「青空娘」という作品タイトルは、まさしく、ここに由来しているのであって、それは、「青空のように明るい娘」というよりも、「いつでも、どんな雨風の日にでも、その雲の彼方に青空があるのだ、と信じている女の子」のことを示している。

敗戦の記憶が生々しい昭和31年頃には、辛い境遇で生きる人々は少なくなかったはずである。

源氏鶏太は、そんな人々に対するエールのような感覚で、この小説を書いたのではないだろうか。

もっとも、主人公の有子は、元・担任教諭の<二見>や社長子息の<広岡>から求婚されるなど、決して孤独な身の上ではなかった。

異母兄の正治でさえ「あれで、半年ほど、東京の風に吹かれてみろ。照子なんか、問題ならんくらい、綺麗になるぞ」と、有子の魅力を認めているほどだ。

しかし、彼女にとっての幸せは、実の母親<町子>と再会することであって、男たちは、彼女の母親探しに協力しなければならない。

敵と味方が、非常に明確で分かりやすいのは、童話『シンデレラ』を意識したためだろうか。

深みはないが、味はある。

源氏鶏太らしい、爽やかな青春小説だ。

書名:青空娘
著者:源氏鶏太
発行:2016/2/10
出版社:ちくま文庫

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やまはな文庫
アンチトレンドな文学マニア。出版社編集部、進学塾講師(国語担当)などの経験あり。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。