村上春樹の世界

村上春樹「カンガルー日和」青春の終わりと喪失感という気づきの物語

村上春樹「カンガルー日和」あらすじと感想と考察

村上春樹「カンガルー日和」読了。

本作「カンガルー日和」は、1981年(昭和58年)10月『トレフル』に発表された短編小説である。

この年、著者は32歳だった。

作品集としては、1983年(昭和58年)9月に平凡社から刊行された『カンガルー日和』に収録されている。

母親カンガルーに自身を投影した女の子

本作「カンガルー日和」は、心に不安を抱える女の子が、動物園でカンガルーの親子を見たことによって心を癒やされ、精神の安定を取り戻すという浄化の物語である。

もっとも、物語の語り手である<僕>は、新しい不安を抱えて動物園を去っており、ここに<僕>と<彼女>との精神的な距離感が示されている。

若い夫婦の微妙な心理バランスを描いた物語であり、特にやがて父親になろうとする男性の喪失感に、ここでは注目したい。

そもそも、動物園へ行くまでの<彼女>は、心に不安を抱える不安定な女の子だった。

「ねえ、まだカンガルーの赤ん坊は生きているかな?」と電車の中で彼女は僕に訊ねた。「生きてると思うよ。だって死んだっていう記事が出ないもの」(村上春樹「カンガルー日和」)

彼らが、新聞の地方版でカンガルーの赤ん坊の誕生を知ったのは、一か月まえのことだった。

一か月間、彼らは、カンガルーの赤ん坊を見るために動物園へ出かける日を、互いに調整してきたのだ。

カンガルーの赤ん坊が、無事に母親の袋の中に入っている様子を見て、彼女は、ようやく心を落ち着かせる。

僕がカンガルーの柵に戻ると、彼女は「ほら」と言って一匹の雌カンガルーを指さした。「ほら、見て、袋の中に入ったわよ」(村上春樹「カンガルー日和」)

母親の袋の中で「保護されている」カンガルーの赤ん坊に、<彼女>は自分自身の姿を投影し、安心したのだろう。

「ねえ、ビールでも飲まない?」と言って、<彼女>は動物園を後にする。

つまり、本作「カンガルー日和」は、ある意味において、<彼女>の心の安定を描く浄化の物語だったのだ(少なくとも表面的には)。

しかし、もっと重要なテーマが、この作品には隠されている。

青春の終わりを自己認識したカンガルー日和

<母親カンガルー>に自身を投影した<彼女>に対し、物語の語り手である<僕>は、<父親カンガルー>の方に、自身の姿を投影している。

父親カンガルーの方はすぐにわかった。いちばん巨大で、いちばん物静かなのが父親カンガルーだ。彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている。(村上春樹「カンガルー日和」)

<僕>がカンガルーの父親に見たもの、それは、赤ん坊の誕生によって様々な可能性を失ってしまった、力ない将来の自分自身だ。

結婚して、やがて父親になるだろう男性の喪失感が、そこにはある。

そして、<僕>の喪失感を強調しているのが、母親カンガルーとは違う別の雌カンガルーの存在だ。

「でも、どちらかが母親で、どちらかが母親じゃないんだ」と僕は言った。「うん」「とすると、母親じゃない方のカンガルーはいったいなんだ?」(村上春樹「カンガルー日和」)

<母親じゃない方のカンガルー>は、男性にとっての可能性の象徴である。

例えば、妻とは別の女性と恋愛(セックス)をすることの可能性。

しかし、赤ん坊の誕生によって、<僕>の可能性は著しく現実性の薄いものとなる。

つまり、動物園にいる4匹のカンガルーの中に、<僕>は、「青春の喪失」という
自分自身の現実を再認識したのだ。

この作品を読み終わったとき、僕は、何かしらとらえどころのない空虚感を覚えた。

それは、動物園のカンガルー親子の姿を通して、青春期の終わりに直面している男の姿が、象徴的に描き出されていたからだろう。

簡単に言って、本作「カンガルー日和」のテーマは「青春の終わり」である。

大人になった後で、人は日常の様々な場面に「青春の終わり」を象徴的に感じるものだ。

<僕>にとって、それは、動物園のカンガルー親子だった。

だから、<カンガルー日和>は<僕>にとって、青春の終わりを自己認識する日でもあったのである。

作品名:カンガルー日和
著者:村上春樹
書名:カンガルー日和
発行:1986/10/15
出版社:講談社文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。