スティーヴン・キング「スタンド・バイ・ミー」読了。
夏が来るたびに「スタンド・バイ・ミー」を読み返している。
今年の夏も読んだ。
今年の夏は、2010年に改版されたものを新刊書店で買ってきて、新たな気持ちで読んだ。
そして、今年の「スタンド・バイ・ミー」も、やっぱり面白かった。
「スタンド・バイ・ミー」は、今は三十四歳になった小説家が、十二歳の夏休みを振り返って描いた少年時代の回想物語だ。
大人の視点から少年時代を描いているので、純粋な意味での「少年もの」とは言えない。
この小説は、大人が描く少年時代の思い出の物語なのだ。
12歳の夏休み、わたし(ゴードン)は、クリス、テディ、バーンという、いつものメンバーで、鉄道事故で亡くなったらしい少年の死体探しの旅に出かける。
ゴードンの父は、彼らを「泥棒がひとりに、低能がふたり。わしの息子にはごりっぱな仲間さ」と揶揄するが、父の評価はあながち間違いではなかった。
唯一、ゴードンを理解しているクリスが、旅の途中で、こんな話をする。
「おまえの友達はおまえの足を引っぱってるよ、ゴーディ。おまえにはわからないのか?」
「おまえの友達」というのは、もちろん、テディとバーンと、そしてクリスのことだ。
キャンプの夜、ゴーディはクリスの夢を見る。
夢の中で、ゴードンとクリスは、六月の暑い陽ざしが照りつける中、のんびりと並んで泳いでいるが、突然クリスが水の中に沈んでしまう
「たすけて! ゴーディ! たすけて!」と叫ぶクリス。
水の中をのぞきこむと、二人の死人(バーンとテディ)がクリスのくるぶしをつかんでいた。
やがて、クリスは水の中へ沈んでゆき、次に岸に向かって泳いでゆくゴードンの足を、腐ってやわらかな、無常な手が引っぱり始める。
これは、もちろん、著者(ゴードン)が大人になって過去を振り返っている物語だ。
誰が誰の足を引っぱっていたのか、大人になったゴードンは知っているし、この物語は、そのために書かれた物語でさえある。
死体探しの旅と夏休みが終わったあと、やがて、テディとバーンは、ゴードンとクリスから離れていった。
「友人というものは、レストランの皿洗いと同じく、ひとりの人間の一生に入りこんできたり、出ていったりするものなのだ」
キャンプの夜に見た夢を思い出しながら、ゴードンは「そうなるべくしてなったのだという気がする」と、自分に言い聞かせてみる。
「ある者は溺れてしまう、それだけのことだ。公平ではないが、しかたがないのだ。ある者は溺れてしまう」
それでも、ゴードンとクリスは深い水の中で、たがいにしがみつきながら、大人になった。
職業訓練課程に進むべきクリスは、ゴードンと一緒にカレッジ・コースを選択し、テディやバーンと遊び惚けていた時代の”つけ”を払い終わって、二人揃ってメイン州立大学に進学する。
二人の死人を振り払い、水の底から浮き上がったクリスは、法律家としての道を歩み始めようとしていたが、やがて、逃げられない運命がクリスを襲った…
大人になったゴーディは、旅の途中の「コイン投げ」のことを考えている。
誰が食料品店へ食料の買い出しに行くか。
四人全員のコインが裏で揃ったとき、バーンが「グーチャー」だと叫ぶ。
「グーチャー」は非常に運の悪い印だと、子どもたちの間では信じられていたのだ。
結局、ゴードンが負けて、一人で買い物へ行くことになるのだが、あのとき勝った三人のコインは、やはり裏(グーチャー)だった。
「彼らは依然としてグーチャーのままだった。二度目は、悪い運が彼ら三人だけを指さしたかのようだった」
コイン投げの占いは、少年たちの遠い将来を既に暗示していた。
大人になったゴードンは考えている。
「ささいな出来事が、時間を経るうちに、だんだん大きな反響を呼ぶものだとしたら…」
少年時代の彼らには、彼らの将来を予感させる「ささいな出来事」が、いくつもあったことを、ゴードンは知っていたのだろう。
「スタンド・バイ・ミー」は、ひと夏の少年成長物語だ。
それでいい。
いつか誰もが尊く思える純情な日々の友情を、ゴードンもまた尊く感じている。
そうでなければ、どうして、少年の日に旅をしたあの土地を再び訪れてみようかなどと夢想し、「どんな残骸でもいい、かつてのわたしの面かげが残っていないか」などと考えたりするだろうか。
書名:スタンド・バイ・ミー
著者:スティーヴン・キング
発行:1988/3/25
出版社:新潮文庫