日本文学の世界

小沼丹「清水町先生」一番弟子が綴る井伏鱒二と太宰治

小沼丹「清水町先生」あらすじと感想と考察

小沼丹「清水町先生─井伏鱒二氏のこと」読了。

本作「清水町先生」は、1992年(平成4年)3月に筑摩書房から刊行された随筆集である。

この年、著者は74歳だった。

一番弟子が綴った井伏鱒二

「清水町先生(しみずちょう・せんせい)」とは、井伏鱒二のことである。

杉並区清水町の井伏鱒二邸をしばしば訪れた小沼丹は、師・井伏鱒二のことを「清水町先生」と呼んだ。

下部にはその后も二、三度行ったが、帰途は大抵甲府の清水町先生行附の宿に寄ることに決っていた。(小沼丹「枯葉」)

小沼丹の作品中では、清水町先生として井伏鱒二が登場することもある。

下部温泉に泊まった話は、本書の巻頭を飾る「随筆井伏鱒二」にも登場していて、「ここが酒場だ」という妙な名前の酒場の女たちに、井伏さんが「オレたちは将棋指しだよ」とシレッと嘘をついたことなどが綴られている。

ちくま文庫版の解説を、庄野潤三が担当している。

ついでにしるすと、小沼とは二人でよく酒を飲んだ。時間を約束して、新宿の西口の地下のビアホールで小沼と会う。海老の串焼きなんかをとって(二人ともこれが気にいっていた)ジョッキを傾ける。このビアホールを振出しにあちこちまわって、夜中に荻窪あたりでやっと別れて、それぞれ家路についた。(庄野潤三「師弟の間柄」)

当時のことは、「秋風と二人の男」や「鉄の串」といった庄野潤三の作品に詳しく書かれている。

ちくま文庫版『清水町先生』は、井伏鱒二と小沼丹と庄野潤三の三人を楽しむことができる一冊、とも言えるだろう。

井伏鱒二と始終行動を共にした小沼丹の書く話だから、素顔の井伏鱒二を知ることができる。

文壇史的な逸話よりも、落穂拾い的なエピソードを読むのが楽しい。

僕は昭和十五年頃、初めて井伏さんのお供をして阿佐ヶ谷の飲みやをまわった。それから、荻窪の飲みやにも行った。その頃の飲みや、或はおでんやで、いまも残っているのは、僕の知る限りでは「おかめ」ぐらいなものだろう。(小沼丹「随筆井伏鱒二」)

「おかめ」の主人スエさんは、一年ばかり前に病気で亡くなってしまった、という文章が、この後に続いている。

スエさん(末さん)のことは「断片」でも書かれた。

清水町先生のお供をして始めて荻窪の末さんの店に行ったのは、昭和十五年頃である。その頃末さんの店は、駅から青梅街道を清水町の方に歩いて行くと左手にあった。小さなおでんやで、五、六人入ると満員になるぐらいの店だったと思う。(小沼丹「断片」)

内臓疾患で入院した末さんが、手術後の経過が悪くて死んだとき、井伏さんは「──医者が悪いんだよ」と憮然としたという。

井伏鱒二の酒が長かったことは、多くの仲間たちが書き残している。

井伏さんは体力があるから、大抵の人は、井伏さんと一緒に酒を飲んでいると、居睡りを始める。例えば、何人かで飲んでいるとすると、一人、二人と欠けていって、最後は井伏さん一人になってしまう。「──一人去り、二人去り、近藤勇はただひとり……」井伏さんは憮然としてそう呟かれる。(小沼丹「随筆井伏鱒二」)

「何故、近藤勇が出て来るのかよく判らない」と、小沼さんは綴っているが、「──一人去り、二人去り、近藤勇はただひとり……」は、井伏鱒二の酒を象徴する有名な言葉となった。

自著『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』の中で、川島勝は、古い時代劇映画を観ているときに「──一人去り、二人去り、近藤勇はただひとり……」という台詞が出てきたと言っているが、映画のタイトルは明記されていなかったようだ。

井伏鱒二と一緒に旅行をした話には楽しいものが多い。

友人の吉岡達夫と一緒に、清水町先生のお供をして甲州波高島に行った。(略)二階の窓の前に、松の木に絡み附いた凌霄花が見えた。吹渡る風のなかに、青空を背景にした黄色がかった紅の花はたいへん印象的に見えた。「──佐藤さんの所に凌霄花がある」先生はそう云われた。(小沼丹「断片」)

「吹渡る風のなかに」とあるが、インク瓶を載せた井伏さんの原稿用紙が、瓶ごと風に飛ばされてしまうほど、強い風だったらしい。

東北の小原温泉へ行った話は「釣竿」に書かれている。

早速、夕食時迄釣をすることになって、宿の部屋で井伏さんから、糸のつけ方等いろいろ教わって、伊馬さん横田さんは釣はしないから、井伏さんと二人で川原に出て行った。何しろ、ホテル・鎌倉の前を白石川が流れているのだから都合が好い。(小沼丹「釣竿」)

このとき、小沼丹の使った釣り竿は、阿佐ヶ谷の北口の釣具屋で、井伏鱒二に買ってもらったものだった。

井伏さんは「──釣をやると健康になる、君も釣を始めるといい」と言ったそうだが、案外、将棋仲間・酒飲み仲間の小沼丹を釣り仲間にしたかったのかもしれない。

ちなみに、「伊馬さん」とあるのは伊馬春部、「横田さん」とあるのは横田瑞穂のことである。

付き合いの長い二人だったから、井伏文学の解説にも注目すべきものが多い。

「画家志望」では、1967年(昭和42年)正月の朝日新聞に掲載された「出土品」なる随筆を引きながら、「僕の小説のユウモアは、感傷を消すためだ」という、井伏さんの言葉を添えている。

いつだったか井伏さんのお宅に伺ったら、新潮社の編集者と話をしていた井伏さんが、君、ロサンジェルスのオリムピックで馬術で優勝した人を知ってるかね? と訊いた。バロン・西ですか、と云うと井伏さんが、「──うん、今度はその人のことを書く」と云った。(小沼丹「解説『現代の随想』」)

それから間もなく『新潮』に発表された作品が、名作の評価も高い「軍歌「戦友」」だった。

作品の背景を知ることは、作品理解に繋がる。

井伏さんは南方へ行く輸送船のなかで、日米開戦を知ったのである。「遥拝隊長」の主人公の性格は、このときの輸送指揮官のそれをとった、と井伏さんは云う。何かと云うと、みんなを集めて「東方遥拝」をやらせたそうである。(小沼丹「井伏鱒二の文学」)

人気作『駅前旅館』では、「──番頭の寂しさを書こうと思ったんだ」と、井伏さんは言ったそうである(「解説『駅前旅館』」)。

井伏鱒二氏は小説の題名をつける名人である。小説の名人である、と云うのはむしろ陳腐な言葉であって、「集金旅行」「さざなみ軍記」「本日休診」「貸間あり」等々、いづれもその題名だけとっても豊富な話題を提供するにこと欠かぬ。(小沼丹「解説『駅前旅館』」)

とりわけ「貸間あり」のタイトルは、時代的にもキャッチーだった。

「貸間あり」の広告が街に出たとき、住宅事情の切迫していた当時のこととて、人びとが争って版元の鎌倉文庫へ貸間の問い合せに殺到したと云うのも、今となってはむしろ懐かしい想い出であろう。(小沼丹「井伏鱒二」)

こうした井伏文学を、弟子の小沼丹は、どのように見ていたのか。

どうも井伏さんは現実の正面切った姿を捉えようとはしていない。その横顔を捉えようとしているようである。横顔を捉えてこれを処理する井伏さんの手並は洵に鮮やかである。横顔を捉えることで、正面からはとても窺い知れぬ笑いが生れて来ることになる。正面からはとても見えない涙が隠されているのが見えて来る。これは井伏さんの初期の作品に共通して云えることである。(小沼丹「井伏鱒二の文学」)

どうやら、小沼丹は、井伏鱒二の文学の読者としても秀でていたらしい。

文学の良き理解者だったからこそ、井伏鱒二も心を許して深く交友したのだろう。

弟弟子が綴った太宰治

井伏鱒二の名前が出ると、多くの人は、太宰治のことを訊きたがるものらしい。

井伏鱒二の自宅で、青柳瑞穂と一緒に酒を飲んでいるとき、「──こうやってうちで飲んでいると、太宰が現れる筈なんだがね……」と井伏さんが言った。

太宰さんは井伏さんの奥さんの「──津島さんがお見えになりました」と云う声に続いて、何だか恥かしそうな笑顔で座敷へ這入って来ると、畳に両手を突いて井伏さんに大きなお辞儀をした。(小沼丹「太宰治の記憶」)

小沼丹が、兄弟子にあたる太宰治と会ったのは、このときが初めてだったが、小沼さんは太宰に対して「礼儀正しく健康そうな人物」という印象を持ったという。

太宰さんはこんなことを云った。「──先日、鷗外の或る作品を読んでいて、「緩頬」と云う単語を鷗外が用いているのを発見した。いい言葉だと思うので、今度小説を書くとき使おうと思っています」(小沼丹「太宰治の記憶」)

それから間もなく発表された「盲人独笑」で、太宰は「緩頬」という言葉を使っている。

それが、今では、人名辞典を開けば、すなわち「葛原勾当」の項が、ちゃんと出ているのであるから、故勾当も、よいお孫を得られて、地下で幽かに緩頬(かんきょう)なされているかも知れない。(太宰治「盲人独笑」)

小説家というのは、こういう変わった言葉一つにも、敏感に反応するものらしい。

その頃、太宰さんは「花火」と云う短篇を発表した。読んだか? と訊かれたので、まだ読んでいないと答えると、あれは気に入っている作品だから読んで欲しい。「──君も芸術家である以上、書出しと最后の数行を読んで呉れれば分る筈だ」太宰さんはそんなことを云った。(小沼丹「太宰治の記憶」)

ちなみに、「花火」の終わりは、次のようになっている。

「それではお大事に。悪い兄さんでも、あんな死にかたをしたとなると、やっぱり肉親の情だ、君も悲しいだろうが、元気を出して」少女は眼を挙げて答えた。その言葉は、エホバをさえ沈思させたにちがいない。もちろん世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉であった。「いいえ、」少女は眼を挙げて答えた。「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」(太宰治「花火」)

このときは旧約聖書の話も出たりして、太宰は「モオゼを書きたい」と言っていたという。

師・井伏鱒二の文学についても、太宰治らしい言葉が残されている。

井伏さんの話が出たとき、太宰さんは「井伏さんは日本には珍しい秀れたストオリイ・テラアであって、その意味では、井伏さんは嫌がられるかもしれないが、芥川龍之介の系統を引いている」と云った。ダビデの鬼の眼に涙には些か納得し兼ねたが、この説には大いに賛成した憶えがある。(小沼丹「太宰治の記憶」)

芥川龍之介の自殺は、二人の間でも話題となった。

芥川龍之介の話をしたとき、太宰さんはこんな意味のことを云った。「──芥川龍之介の自殺を、独身のとき、自分は無礼なことだと思っていた。妻子を残して勝手に死ぬとは無責任極まると思っていた。しかし、自分が結婚して子供も出来てみると、却って安心して死ねる気がして来た。芥川の自殺を肯定出来るような気がして来た」(小沼丹「太宰治の記憶」)

太宰治が、1948年(昭和23年)6月に38歳で死んだとき、小沼丹は30歳で、『文学行動』に追悼文「『晩年』の作者」を発表している。

「井伏鱒二の一番弟子」という称号は、このときに、太宰治から小沼丹へと引き継がれたのだろう。

太宰治の文学碑が甲州御坂峠に建てられる前、小沼丹は吉岡達夫とともに、井伏鱒二に随行して、二度ばかり御坂峠を訪れている。

1952年(昭和27年)7月に波高島を訪ねたときが一度目で、二度目は、1953年(昭和28年)7月のときである。

二度目は、太宰治文学碑建立の下見が主目的で、太宰の弟子だった小山清も同行していた。

文学碑の除幕式が行われた1953年(昭和28年)10月は、だから、小沼丹にとっては三度目の御坂峠訪問だった、ということになる。

除幕式で挨拶をした井伏さんは、「──太宰君は大正十六年の秋から冬まで、ここの茶屋に泊っておりました……」と云った。

このときは隣に立っていた村上さんが突然此方を向いて、吃驚したような顔をして、低い声で、「──井伏さん、大正と云わなかったかね?」と訊いた。耳を疑ったのだろう。それから、間違と判ると下を向いて、くすりと笑った。(小沼丹「御坂峠」)

このときは、中央線の大月から富士吉田まで、特別仕立ての電車が出て、村上菊一郎のほか、河上徹太郎、青柳瑞穂、浅見淵、木山捷平、伊馬春部、小山清、小田嶽夫などが乗車して行ったという。

太宰からは「井伏さんは悪人です」と罵られた井伏さんだったが、太宰治に対する親しみの情は、亡くなるまで消えることがなかったらしい。

書名:清水町先生
著者:小沼丹
発行:1997/06/24
出版社:ちくま文庫

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やまはな文庫
アンチトレンドな文学マニア。出版社編集部、進学塾講師(国語担当)などの経験あり。推しは、庄野潤三と小沼丹、村上春樹、サリンジャーなど。ゴシップ大好き。