日本文学の世界

太宰治「富嶽百景」人間として、小説家としての再起を賭けた甲州滞在

太宰治「富嶽百景」読了。

「富嶽百景」は、講談社文芸文庫『私小説名作選(上)』(中村光男選)に収録されている短篇小説である。

初出は『文体』1939年(昭和14年)2月号・3月号。

太宰の作品集では『女生徒』(1939、砂子屋書房)に収録された。

きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。

昭和十三年の初秋、思いをあらたにする覚悟で、私(太宰自身のことだろう)は、かばんひとつさげて旅に出た。

行先は甲州である。

御坂峠の頂上に天下茶屋という小さな茶店があって、そこの二階に井伏鱒二が原稿執筆のために逗留していたのだ。

太宰は、井伏さんの仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、自分もしばらくそこで仙遊しようと考えていたのである。

この「富嶽百景」は、11月に太宰が御坂峠を引き払うまでの体験を素材とした短篇小説だ。

いわゆる私小説なので、随筆のように読むことも可能だろう。

その頃、太宰はどん底の生活をしていた。

麻薬中毒(パビナール依存)治療のための強制入院。

最愛の妻の不倫(親類の男に寝取られていた)。

そして、妻との心中未遂と離婚。

小説家として、男として、人間として、何とか太宰を再生させなければならないと考えた世話人たちは、井伏さんに頼み込んで、太宰を御坂峠へ送り出す。

甲府で太宰は、井伏さんの紹介によって、ある娘さんと見合いをすることになっていた。

「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻じ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。

私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。(太宰治「富嶽百景」)

やがて、この女性と太宰は結婚することになるのだが、見合いの後、太宰は少しずつ復活してゆく。

私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあ、と思った。「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ。」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。(太宰治「富嶽百景」)

東京で暮らしていた頃、「クリスマスの飾り菓子」にしか見えなかった富士を、太宰は「偉いなあ」「よくやってるなあ」と言えるようになった。

「富士には、かなわないと思った」というフレーズには、小さな存在の自分を認める爽やかさがある。

私は、狐に化かされているやうな気がした。富士が、したたるように青いのだ。

「富嶽百景」の中で楽しいのは、何と言っても「富士に化かされた話」だろう。

おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐が燃えているような感じだった。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。

下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでいる。私は溜息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思った。(太宰治「富嶽百景」)

この後、財布を落としたことに気づいた太宰は、財布を探しに引き返すのだが、この夜のことを、太宰は「富士に化かされたのだ」と回想している。

おそらく、甲州滞在の中でも記憶に残る一夜だったに違いない。

ところで、「富嶽百景」で有名なフレーズは「富士には、月見草がよく似合う」である。

三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。(太宰治「富嶽百景」)

雄大な富士と可憐な月見草との対比は、社会の中で生きていく一人の人間の存在を思わせる。

あるいは、文壇の大御所と向き合う一人の若手作家と言ってもいいかもしれない。

月見草に共感できたとき、太宰は自分自身の再起の可能性を信じることができたのではないだろうか。

書名:私小説名作選(上)
編者:中村光夫
発行:2012/5/10
出版社:講談社文芸文庫

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。