書簡

庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」家庭を育みながら文学を育んできた庄野潤三の世界

庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」読了。

本作「誕生日のアップルパイ」は、2024年(令和6年)6月10日に夏葉社から刊行された書簡集である。

庄野千寿子は、作家・庄野潤三の妻で、平成29年に92歳で他界している。

庄野夫人から長女・夏子へ送られた130通の手紙

本作「誕生日のアップルパイ」は、庄野夫人(庄野千寿子)が、長女(庄野夏子、現在は今村夏子)へ宛てた手紙を収録した書簡集である。

千寿子から夏子へ送られた手紙は842通あり、そのうち130通が本書に入った。

一番古いものは、1973年(昭和48年)3月20日の日付があるもので、このとき、長女は、二人の男の子(和雄と良雄)の母親として、餅井坂の借家で暮らしていた(1970年5月に今村邦雄と結婚)。

ちなみに、長男(龍也)は、成城大学3年生、次男(和也)は、多摩高校3年生である。

昭和四十八年三月二十日 おいしいレモンパイありがとうございます。何ておいしいパイでしょう。おいしかった!!(略)お父くんは一切食べてから「いくらでもほしくなるな」と云いながら、やっと、がまんいたしました。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

「お父くん」とあるのは、夫(庄野潤三)のことで、レモンパイをもらった礼状らしい。

庄野潤三の作品では、長女(今村夏子)の手紙が、重要な素材となっている場合が多いが、この書簡集では、長女・夏子の手紙と対になる庄野家側の様子を知ることができる。

昭和五十五年四月十三日 続々届く足柄だより、忙しいのにありがとう。お父くんは、「足柄だより」と云う大きい封筒をつくって、その中に、入れて大切にしています。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

庄野夫妻は、南足柄市に引越しをした長女から届く手紙を「足柄だより」と呼んで、大切に保管していたらしい。

「夏子は、ちっともいやなこと手紙に書かないから、あけるのがたのしみだとお父くんは云っておられます」という文章もある(昭和五十五年六月二十日)。

昭和五十七年八月一日 この間は、お、も、ち、ろ、い、お手紙ありがとう。お父くんと何度もよんで、お父くんは例によってナンバーと、日附をつけて保存しています。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

おそらく、庄野さんは、長女から届く手紙を、小説の重要な素材として意識していたのだろう。

昭和六十年八月十九日 お父くんは、夏子の今年のお手紙机一杯にひっぱり出して「群像十月号」の足柄物語にとりかかられました。お父くん曰く「まあ何と事多い一年か。三月神戸、それから良雄中学入学、ジャッキーが来て二ヶ月。暮には正雄が生れて、わしゃ何から書いていいか分らんよ」ですと。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

<「群像十月号」の足柄物語>とあるのは、『インド綿の服』(1988)に収録されている「誕生日の祝い」(発表時は「誕生祝い」)のことと思われる。

『インド綿の服』には、長女の手紙(いわゆる「足柄物語」)を主要な素材とした短篇小説が収録されているが、収録作品は、当時、ほぼ一年に一遍のペースで発表されていた。

「ジャッキー」は、長女の家にホームステイしていたアメリカの女子高生の名前で、「誕生日の祝い」では、当然ジャッキーのエピソードが、重要なエピソードとなっている。

ちなみに、庄野さんが、脳内出血で緊急入院することになったのは、「誕生祝い」発表後の1985年(昭和60年)11月のことだった。

昭和六十一年一月十六日 こん度のことで夏子には、本当に本当に言葉に尽くせない程の、はげましを、力を貰って、邦夫さんには、それこそ、一番大変な実務と、機動力を貰って、心から心から感謝しています。足柄の素晴らしい暖かい戦力がなかったら、生田艦隊は、きっと沈没していたと思うわ。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

庄野さんの闘病生活については『世をへだてて』(1987)に詳しいが、「生田艦隊」という言葉が、庄野一族の絆の強さを感じさせる。

「お父くんは、もう日経の随筆にとりかかっておられます」とあるのは、1986年(昭和61年)1月23日の日本経済新聞に発表された「病院の早慶ラグビー」のこと(『誕生日のラムケーキ』所収)。

『世をへだてて』に登場するエピソードの裏事情を読めるような手紙もある。

昭和六十一年二月二十日 今年のお誕生日は特別に、おめでたい感じでした。ファミリー全員でお父君に、すてきなステッキを贈ることにして、急いで買うと失敗するので、ゆっくり探すことにします(仲間に入ってね)。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

長女から届く「足柄物語」を主題とする『インド綿の服』は、1988年(昭和63年)2月に講談社から刊行された。

昭和六十一年二月二十日 「たまニャンの落し子」の話面白いね。「足柄物語」が亦書けそうだとお父くんは、よろこんでおられるのよ。もう二編で、一冊の本に出来ます。お父くんは邦夫さんのつきまくりの話も、うれしそうだった。夏子が、元気づけに、面白い、いい話ばっかりしてくれたんだなあと思ったわ。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

「たまニャンの落し子」(ニャン次郎)の話は、「足柄山の春」に登場するが、「もう二編で、一冊の本に出来ます」とあるところ、実際には「もう一遍」(つまり「足柄山の春」)で、一冊の本となった(これが『インド綿の服』)。

庄野さんの作品は、そもそも実際の生活を素材としているから、庄野文学とリンクする内容の手紙も少なくない。

例えば、次男(和也)一家が、読売ランドへ引っ越していった日のこと。

平成四年十一月六日 (略)操ちゃんはお隣りさんの車で先に行くことになり、フーちゃんが「おじいちゃん、さようなら」と云いに来たとたん、お父くんも私も、泣き出してしまいました(だらしないね)。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

この場面は、『さくらんぼジャム』(1994)にも描かれている。

私が荷物の運び出しを眺めているところへフーちゃんが来て、「さようなら」といって引返した。こちらは咄嗟のことで、何もいわずにフーちゃんのあとをついて行き、ミサヲちゃんとフーちゃんのいる前で、「遊びにお出で。泊りがけで」といった。そのあと、前田さんの車の方へ行くミサヲちゃんとフーちゃんのうしろを歩いているうちに、不意に顔がくしゃくしゃになり、泪が出そうになった。(庄野潤三「さくらんぼジャム」)

作品の素材となった場面が出てくる手紙は少なくないから、庄野さんの作品と関連付けながら読むと、本書の味わいも一層深くなるのではないだろうか。

優しくて温かい庄野文学の世界を追体験させてくれる

庄野さんの交友関係を知る上で参考となる手紙もある。

昭和五十七年八月八日 今日はお父くんは村上菊一郎さんのお葬式(おぼえてるでしょう。家びらきの時、大声で、「なつこさんなつこさん」と云った方よ)。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

早稲田大学で小沼丹と同僚だったフランス文学者・村上菊一郎は、1982年(昭和57年)7月31日に他界。

1961年(昭和36年)4月末に行われた、生田の「山の上の家」の家びらきには、井伏鱒二や小沼丹、横田瑞穂などとともに参加し、酔って「なつこさーん」と大きな声で連発したことは、庄野さんの作品の中にも描かれている。

恩師と慕った井伏鱒二が逝去したのは、1993年(平成5年)7月10日のこと。

平成五年七月十二日 そして今日は、井伏さんのお見送りに来て貰って、夏子がいてくれたから安心してお父くんをまかせて、飛んで帰り、お稽古に充分間に合いました。(略)井伏さんらしい、清らかで、さりげなきお葬式だったわね。でも、井伏さんとアーメンとは、どうしても結びつきません。眼をパチパチなさってるでしょうね。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

サラリーマン時代からの友人だった阪田寛夫を亡くしたときの悲しみは大きい(2005年3月22日他界)。

平成十七年三月二十七日 昨日は、文学界の新井さんが原稿とりに来られて、書斎の阪田さんのお写真の前で、お料理を出して、あたたかい日で、アマリリスもきれいだったし、よかったです。(略)それが、今、夏子の電話をきいたとたん、涙が出て来て「泣くもんか」と思っても勝手にポロポロ出て、「声を出すもんか」と思って、グァンバリました。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

「お父くんは、口に出されないだけ淋しいと思います。立ち直られるのにも、お時間が随分かかると思うけど……」の記述もあり、年下の友人を失った庄野さんの喪失感が伝わってくる。

1996年(平成8年)11月8日に亡くなった盟友・小沼丹の死について触れている手紙は収録されていない。

昭和五十八年十月二十四日 (コンコン)(ノックの音)「小沼、アドリアへジュースのみに行かないか」(中から)「うん、いいね」(四人ゾロゾロ、下へおりる)(亦、しばらくして)(コンコン)「夕食に行きましょう」「ハイ」(奥様の声)(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

これは、1983年(昭和58年)10月に、小沼丹夫妻と庄野潤三夫妻の四人で、伊良湖ビューホテルに泊まったときのことで、「結婚以来、一昨年の伊良湖行きまで一回も小沼さんと旅行されたことのない奥様は「庄野さんのおかげで」と、感謝感激です」と書いた後に、「何処へでもくっついて行く、あたちは何と幸せかと思っています」と書いてある。

本作『誕生日のアップルパイ』の装画(表紙イラスト)も、小沼丹の作品であり、庄野家と小沼丹とのつながりを深さを感じさせる。

全編を通して感じられるのは、庄野文学が、文字どおり家族の支えによって成立していたという事実だろう。

平成十三年三月二十五日 来週は「山田さんの鈴虫」の見本が届きます。楽しみに楽しみにしています。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

夫の書籍の出版を、家族で喜ぶ場面は数多い。

平成十一年四月八日 ゆばのおつくり。にしんそば。牛肉のミニステーキ。筍ごはん。いいお献立でしょう。「庭のつるばら」の出版記念の会なの。いつもサポートして貰って、おかげで亦本が出版され本当に本当にありがとう。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

我がことのように『庭のつるばら』の出版を喜び、長女にお礼を述べる庄野夫人。

この夫人の支えがなければ、庄野さんの文学は成り立たなかったのかもしれない。

平成九年四月 お父くんの「ピアノの音」お届けします。「赤と金」ときいていたので、びくびくしていたのですが、赤ではなく、茶色の落着いた装丁ですてきでよろこんでいます。売れますように祈っています。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

こういう手紙を読んでいると、庄野さんの著作が、まるで夫婦の共著であるような錯覚さえ覚える。

おそらく、庄野さんの小説は、庄野潤三の作品であるとともに、庄野夫妻による共著でもあったのだ(いろいろな意味で)。

庄野家の人々は、父・庄野潤三が、家庭生活を素材として作品を書いていることを理解しながら、それぞれの日常生活を過ごしている。

いつか小説になるかもしれない日常を送っている彼らは、まるで、舞台に立って庄野文学を演じる生きた俳優みたいだ。

そして、庄野文学において、常に最高の女優を演じ続けてきたのは、もちろん、長女(夏子)を置いて他にいない。

昭和六十二年八月十九日 本当に本当に、お父くんの一番の作品は、夏子だなあと、心から思ったわ。(略)考えてみると、今までのお父くんの作品、「ザボンの花」にはじまって、「世をへだてて」まで、皆夏子の支えで出来てるし、長泉院のあの美しい次なる故郷も、書斎のカーペットもきのくにやさんの戻りのたのしい半日も、しょっ中来て貰って次々片づいていくお家の内外も、何もかも夏子の爽やかな力と心のおかげね。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

「お父くんの一番の作品は夏子だ」と、庄野夫人は綴っている。

両親である庄野夫妻が夏子を育て、二人に育てられた夏子が、庄野さんの作品の中で活躍する。

循環する自給自足のような話だが、庄野文学の本質は、まさしく、ここにあるのではないだろうか。

つまり、庄野潤三は家庭を育みながら、文学を育んできたのである。

庄野さんの作品は、ともすれば、特別に工夫のない、単調な作品であるかのような評を受ける場合があるが、実際の生活を素材とする庄野文学の世界は、恐ろしいくらいに彩り鮮やかだ。

本書に収録された130通の書簡は、優しくて温かい庄野文学の世界を追体験させてくれる素晴らしい作品群と考えたい。

平成二十一年十一月九日 そして、昨日は、亦々、美しい長泉院のピカピカにお掃除をして下さった新しい庄野家のお墓に、こんなに和やかで、あたたかく、園遊会のようにお父くんの法要が出来て、夢のように楽しい打上げのお食事がいただけて、車で送っていただいて、本当に本当にありがとうございました。(庄野千寿子「誕生日のアップルパイ」)

庄野潤三亡き後も、庄野文学の世界は続いていく。

あるいは、庄野家の人々の暮らしそのものが、既に「庄野文学」だったのではないだろうか。

庄野さんは、日常生活の中に溢れている「庄野文学の世界」を拾いあげて、鉛筆で描き出しているだけだったのだ(そして、その作業は、特別の資質能力を備えた作家にしかできない)。

庄野夫妻はいなくなったけれど、庄野文学の世界は、今も日本のどこかで続いているような気がする。

庄野夫妻の夢を乗せて。

終わりのない物語を紡ぎながら。

書名:誕生日のアップルパイ
著者:庄野千寿子
発行:2024/06/10
出版社:夏葉社

 

ABOUT ME
青いバナナ
人事系管理職ですが、読書は文学がメインです。好きな作家は、庄野潤三と村上春樹。休日は文学旅行に出かけています。