サリンジャー「ゾーイー」読了。
本作「ゾーイー」は、1957年(昭和32年)、『ザ・ニューヨーカー』に発表された短編小説である。
この年、著者は38歳だった。
なお、単行本としては、1961年(昭和36年)に刊行された『フラニーとゾーイー』に収録されている。
純粋にして複雑な<家族の>愛の物語
この物語のポイントは、窮地の妹フラニーを救ったのは、死んだ長兄シーモアの言葉だったということである。
前作「フラニー」(1955)で、恋人との週末デートに失敗したフラニーは、すっかりと衰弱してしまう。
両親は、食事さえできないフラニーの健康を心配するが、エゴに満ちた世の中を許すことのできないフラニーは、ひたすらに神への祈りを唱えることで、苦しみから逃れようとしている。
心身ともにボロボロとなったフラニーに救いの手を差し伸べたのは、すぐ上の兄ゾーイーだった。
この物語は、大きく3部で構成されている。
最初に、語り手である次兄バディによるイントロダクション、次に、バスルームでのゾーイーと母ベシーとの会話、最後に、リビングルームにおけるゾーイーとフラニーとの会話である。
物語としてのクライマックスは、もちろん、最後のゾーイーとフラニーとの会話の場面にあるのだが、意外と重要なことは、最初にバディが語る短いイントロダクションに含まれているらしい。
はっきり言うが、私の今度の作品は神秘的な物語でも、宗教的秘儀で人を煙にまく物語でも決してない。私をして言わしめるならば、それは、混合されたというか複合されたというか、純粋にして複雑な愛の物語なのである。(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
ゾーイーの長い宗教論は、この物語の重要な要素には違いないが、根底に流れているのは、グラース・ファミリーへの深い愛情である。
「シーモアと話をしたい」とつぶやく妹に対し、ゾーイーはバディを騙った電話をかけ、その電話を通して死んだシーモアの言葉を伝える。
嬉しさのあまりであろう、フラニーは、受話器を、両手まで使って、握りしめているよりほかに仕方なかった。たっぷり三十秒かそこらの間、言葉は切れて、演説は終わった。が、それから「もうこれ以上喋れないよ、きみ」という声が聞こえ、続いて受話器をかける音がした。(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
フラニーが嬉しかった理由は、「太っちょのオバサマ」によって、自分の悩みが解消されたということもあるだろうが、それ以上に重要なのは、「太っちょのオバサマ」は死んだ兄シーモアが生み出した概念であり、その「太っちょのオバサマ」によって自分を救済してくれたのは、生きている兄ゾーイーだったということである。
ゾーイーの電話は、はじめバディの名前をかたって繋がれているから、フラニーは、シーモア・バディ・ゾーイーという三人の兄によって救われたとも言える。
もちろん、ゾーイーは最初に、フラニーを心配する両親(レスとベシー)に触れているから、フラニーを窮地からすくい上げたのは、グラース・ファミリーだったということに他ならない。
最初にバディは、この物語について、「純粋にして複雑な愛の物語」だとエクスキューズを付しているが、もう少し説明を加えるなら、この物語は、「純粋にして複雑な<家族の>愛の物語」なのである。
村上春樹よりも野崎孝の訳をお勧めする理由
妹フラニーを説得するゾーイーの話は冗長で、読んでいうるちにうんざりしてくるが、ゾーイーの長い話は、妹フラニーへの深い愛情に裏打ちされたものであることを考えると、全力投球するゾーイーの姿勢は感動的でさえある。
実際、慣れてくると、ゾーイーの話しぶりに快感を覚えてしまうくらいだ。
グラース家版ファミリー・アフェアの主人公は、やはり、ゾーイーだったということなんだろうなあ。
ところで、サリンジャー『フラニーとゾーイー』(野崎孝・訳)には、村上春樹の翻訳による『フラニーとズーイ』もあるが、ことサリンジャーに関しては、村上春樹訳を避けた方がよろしいように思われる。
グリシャムの『「グレート・ギャツビー」を追え』などのように、純粋にあらすじを楽しむ小説の場合は、村上春樹の訳でも全然問題ないのだけれど(むしろお勧め)、サリンジャーのように深読みを求められる作品の場合、村上春樹の翻訳で読むことによって、作品の解釈が村上春樹に寄ってしまう危険性があるのではないかと感じたからだ。
当たり前だけれど、サリンジャーは村上春樹ではないし、村上春樹もまたサリンジャーではない。
サリンジャー作品を読み解くにあたっては、あまり村上春樹的なフィルターを通さない方が、純粋に作品と向き合うことができるのではないだろうか。
作品名:ゾーイー
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
書名:フラニーとゾーイー
発行:1991/4/20 改版
出版社:新潮文庫