庄野潤三「夕べの雲」読了。
本作「夕べの雲」は、1964年(昭和39年)9月から1965年(昭和40年)1月まで『日本経済新聞』に連載された長編小説である。
連載開始時、著者は43歳だった。
単行本は、1965年(昭和40年)に講談社から刊行されている。
1965年(昭和40年)、第17回読売文学賞(小説賞)受賞。
『夕べの雲』については、過去にも感想を書いているので、今回は『夕べの雲』に登場する名言や名フレーズ、名場面などをまとめておきたい。

「萩」
人間というのはひとところに住みついて、何十年でもそこに暮しているのがよい
なるほど、人間というのはなるべくならひとところに住みついて、一生のうちにどこかへ引越すなどということは夢にも思わず、何十年でもそこに暮しているのがよいのだ。(庄野潤三「夕べの雲」)
本作『夕べの雲』は、多摩丘陵のひとつである丘の上に引っ越して来た<大浦一家>の日常生活を綴った長編小説である。
4月に引っ越してきてから、もう3年が経ち、随分いろいろなことがあった。
本章「萩」は、移転当初の大変だった頃を思い出す場面から始まっている。
うまく行かないことは目立つが、うまく行っていることというのは案外、目立たない
ひとところに暮していると、長い年月の間にそこでいちばん住みよいようにあらゆる努力をしているものだ。そうして、うまく行かないことは目立つが、うまく行っていることというのは案外、目立たない。(庄野潤三「夕べの雲」)
「うまく行かないこと」を書くか、「うまく行かないこと」を書くか。
日常生活を書く小説であっても、方向性によって、随分と違った小説になるだろう。
庄野さんは、暮らしの中の明るい部分に着目して、小説を書こうとしている(ポジティブ・シンキングで)。
人生はいつまでも幼児でいることを許してくれない
幼稚園へ入ったが最後、否応なしに小学校へ行かなければならない。そうして、どこへも行かずに家で遊んでいられた日のことをなつかしく思い出す時がきっとくる。(庄野潤三「夕べの雲」)
幼稚園へ通い始めた下の子<正次郎>について書かれた文章。
入園時から人生のことを考えている幼稚園児はいない。
庄野さんは、とにかく「人生」について考えることが好きな作家だった。
何だか墓堀り人夫になったような気がする
彼は二日かかって、ばらを植えるための穴を掘った。土を掬い出しながら、彼は思わずひとりごとをいった。「何だか墓堀り人夫になったような気がする」(庄野潤三「夕べの雲」)
このバラの木は、新築移転の記念に、大浦の兄が送ってきてくれたもの。
つまり、ずっと先に「英二おじちゃんのバラ」と呼ばれることになるものだ。
もっとも、当時は風除けの木をどうするかということが生活上の大問題で、バラの木を植えるほど優雅な気持ちは、大浦にはなかったのだが。
「終りと始まり」
自分たちはどこにも住む家がなくて、旅を続けている宿無しの一家のような気がして来るのであった
着いた日の晩にこんなことが起こってみると、自分たちはどこにも住む家がなくて、この町からあの町へ、あの町からこの村へと旅を続けている宿無しの一家のような気がして来るのであった。(庄野潤三「夕べの雲」)
大浦家が、毎年夏に外房州の海岸へ遊びに行くようになったのは、長女<晴子>が小学一年生、長女<安雄>が三つになる年のことだった。
今は小学三年生になっている正次郎は三歳のときに、初めてここへ来たが、最初の晩に「もうお家へ帰ろう」と言いだす。
「よそに泊る」ということが理解できなくて、「帰ろう、帰ろう」と泣き出したのだ。
こんなことでもなければ、一生きけない音楽かもしれない
「面白い題だ」と大浦はいった。「こんなことでもなければ、一生きけない音楽かもしれない。ついでにきいてみよう」(庄野潤三「夕べの雲」)
中学生の安雄の夏休みの宿題に、両親がいろいろと協力をしている場面。
音楽の宿題は、音楽を聴いて感想を書くことだったので、大浦と細君は新聞の番組欄で、モオツァルトの『劇場支配人』という曲を発見する。
二人とも、その曲のことを知らないが、「こんなことでもなければ、一生きけない音楽かもしれない」と、大浦は考えている(ポジティブ・シンキングだ)。
「ピアノの上」
出かけた日からもういつもの部屋のようでなくなる
ひと月も二月もいないのではない。五日間の旅行であるのに、出かけた日からもういつもの部屋のようでなくなる。(庄野潤三「夕べの雲」)
高校二年の晴子が、北陸へ修学旅行に出かけた。
留守の部屋は、普段の部屋と空気が違っている。
日常の中の非日常をとらえる巧みさは、庄野文学の大きな特徴である。
世の中にはいろんな人がいて、訳の分らないようなことが起るものだ
世の中にはいろんな人がいて、訳の分らないようなことが起るものだ。大浦は不思議な気持に襲われたが、それだけは家の中へ持ち込むことを認めず、安雄に言いつけてもう一度、もとの場所へ戻しに行かせた。(庄野潤三「夕べの雲」)
小学四年生のとき、長男・安雄が、脚のない馬の置き物を拾ってきた。
安雄は、ガラクタを集めて喜ぶような少年だった。
おかげで、彼は部屋は、訳の分からないガラクタで溢れている。
子供は年とともに背が伸びてゆくが、机は買った時のままで変らない
子供は年とともに背が伸びてゆくが、机は買った時のままで変らない。困ったことだけれども、何とも致しかたない。(庄野潤三「夕べの雲」)
三人の子どもたちには、それぞれ勉強机が与えられているが、一番年上の晴子の机が、最も古くて最も小さい。
いちばん勉強机を使う者が、いちばん不便な思いを強いられているのだ。
どうにも矛盾のように思われるが、大浦は致し方ないと考える。
もうこの机を取ってしまうことは出来ない
部屋全体に或る落着きと調和がもたらされていることに初めて彼は気が附いた。「もうこの机を取ってしまうことは出来ない。このままの方がいいような気がする」と大浦は思うのであった。(庄野潤三「夕べの雲」)
いつか買い替えようと思っていた晴子の机が、すっかりと部屋の中に溶け込んでいる。
その机を大浦と細君が百貨店へ買いに行ったのは、十年前のことだ。
それは、大浦家の家族四人が、大阪から東京へと引っ越してきた翌年の四月のことだった。
家で何かあるというと、決ってこのかきまぜを作る
家で何かあるというと、決ってこのかきまぜを作る。大きなすしのお櫃にいっぱい作る。それは彼や彼の兄弟が育った大阪のすしとは全く違ったものであったが、家中みんな母のかきまぜをよろこび、これだけは母でないと作れないと自慢にしていたのであった。(庄野潤三「夕べの雲」)
庄野家名物の「かきまぜ」が登場。
細君の作るかきまぜは、母の作ったものとそっくり同じではないが、「大体似た味のものが出来ればそれでよし」と彼は思っている。
伝えてくれればいいのである。
早速、大浦の部屋にあるピアノの上にお供えした
晴子は話が一段落したところで、お土産を出した。最後に泊った宇名月温泉で買った山ごぼうの味噌漬と黒部峡谷名産の笹飴である。早速、大浦の部屋にあるピアノの上にお供えした。(庄野潤三「夕べの雲」)
これも、庄野家と名物となっている「ピアノの上のお供え」である。
仏壇のないこの家では、こういう時に何でもピアノの上にのせて、それで「お供え」したことにするのであった。
晩年まで続く、山の上の家の慣習である。
「コヨーテの歌」
どこかわれわれの送っている尋常な人生に似たところがある
中年に達した大浦のような男が、ラビットとタイガーの運命に一喜一憂するのは、漫画の世界の出来事でありながら彼等がいつも旅をしているという一点で、どこかわれわれの送っている尋常な人生に似たところがあるからであった。(庄野潤三「夕べの雲」)
『進めラビット』は、大浦一家の好きなテレビアニメのタイトルである。
子どもたちと一緒に、子ども向けのアニメを見ながら、大浦は人生について考えている。
大浦にとって、小説の材料にならないというものは、きっとないのだろう。
活劇にも人の生き死にになると、哀れがあった
活劇にも人の生き死にになると、哀れがあった。命知らずの無法者の世界にも運不運があったのだろう。(庄野潤三「夕べの雲」)
大浦は、西部劇を観ているときにも、登場人物の運命に思いを馳せている。
「悪人とはいえ、あんな風に撃たれて、こんなあばら家で息を引き取るのはいやだろう」
もう二度と再び聞かれなくなるということは想像もしない
みている方では、ついいつまでもこの劇がつづいてゆくような気持でいる。これが終りになって、あの馴染のある主人公や常連の人物の声がもう二度と再び聞かれなくなるということは想像もしない。(庄野潤三「夕べの雲」)
始まりがあれば終わりがある。
安雄と正次郎が、特に熱心に観ていたのは、「ディズニイ・ランド」という番組で、その中の「コヨーテ腹ぺこ物語」が、特にお気に入りだった。
「おいらは貧乏ぐらし」というフレーズの入るコヨーテの合唱が素晴らしいと、大浦も感じている。
用事がないのは世の中に自分ひとりのような気がよくした
こちらは時々そういう風にして人の家へ遊びに行くけれども、遊びに来る者はいない。いつも閑で、用事がないのは世の中に自分ひとりのような気がよくしたものであった。(庄野潤三「夕べの雲」)
東京都内で、作家活動に専念し始めた頃、庄野さんは、かなり時間を持て余ましていたらしい(何しろ仕事がなかった)。
井伏さんの自宅へ遊びに出かけたのも、この頃のことである。
生田の丘の上に引っ越しをすると、なおさら訪ねてくる者がいなくなった。
それにこの人生では、いいことはそんなに起るものではない
いいことなら、その時に喜べばいい。もしそれが悪いことなら、なお更はっきりしない方がいい。どっちみち、分った時には苦痛を味わうのだから、わざわざ途中まで出迎えに行かなくてもいい。それにこの人生では、いいことはそんなに起るものではない。(庄野潤三「夕べの雲」)
本作『夕べの雲』でも、核心になる文章だろう。
大浦一家が住む多摩丘陵の開発は始まっていたが、大浦はジタバタしたりしない。
受け入れることが、大浦の生き方の基本であり、「受容の文学」こそが、庄野文学の哲学である。
いつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞えてきたことを、先でどんな風に思い出すだろうか
ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞えてきたことを、先でどんな風に思い出すだろうか。(庄野潤三「夕べの雲」)
これも、『夕べの雲』を代表する名言の一つである。
ずっと先の将来に思いを馳せながら、現在を慈しむ気持ちを大切にする。
人生を豊かに楽しむためのヒントが、ここに隠されている。
「金木犀」
エレベーターの前で、まだかまだかと思って立っているより、この方がずっといい
エレベーターの前で、まだかまだかと思って立っているより、この方がずっといい。(庄野潤三「夕べの雲」)
安雄の誕生日プレゼントの電気スタンドを買いに、大浦は細君と百貨店へ出かける。
エスカレーターに乗る人が列を作っているほど、土曜日の百貨店は混雑していた。
山の上で暮らしている大浦は「多いなあ、人が」と感心してしまう。
誰かにいった言葉は、消しゴムで消すわけにもゆかない
ある日ある時誰かにいった言葉は、もう一度いい直しがきかないし、消しゴムで消すわけにもゆかない。(庄野潤三「夕べの雲」)
「消しゴムで消すわけにもゆかない」は、原稿用紙に鉛筆で書いた文章を、消しゴムで消すことをイメージしているのだろう。
失言をした後で、大浦はそんなことを考えている。
「大きな甕」
いま暫く我慢しよう。我慢しなければいけない時だ
早く見たい。全部の格好をまわりから仔細に眺めたい。先ずこの掌で胴を撫でてみたい。だが、いま暫く我慢しよう。我慢しなければいけない時だ──。(庄野潤三「夕べの雲」)
庄野家名物となっている備前焼の大きな甕のエピソード。
仲介役をしてくれた井伏鱒二は<飯沼さん>として登場している。
屋根と天井のある家なら、結構ではないか
雨露が防げるなら、それでいい。屋根と天井のある家なら、結構ではないか、という気持で建てた彼等の家であった。(庄野潤三「夕べの雲」)
大阪から上京してきたとき、庄野さんは、石神井公園の近くに一軒家を建てた。
その家を売却して、神奈川県の生田へ引越しをしようとしているときのことである。
都内の住宅は、名作『ザボンの花』に登場している。
年月とともに屋根も瓦も柱の色も古びてゆくように、住む人も古びてゆく
人が家に住むというのは、もともとそういうものではないか。年月とともに屋根も瓦も柱の色も古びてゆくように、住む人も古びてゆく。(庄野潤三「夕べの雲」)
家に対する庄野さんの思い入れは、かなり強いものがあったようだ。
この思いは、生田の丘の上に建てた住宅で成就する。
「年月とともに屋根も瓦も柱の色も古びてゆくように、住む人も古びてゆく」様子を描き続けたのが、まさしく庄野文学という世界だった。
この甕に福徳があると思うのも、思わないのも、見る人の心次第であった
甕が大浦のところへ来て、「うちの甕」となったことには、もし手繰ろうと思えば、いろんな糸のつながりがある。そうして、この甕に福徳があると思うのも、思わないのも、見る人の心次第であった。(庄野潤三「夕べの雲」)
甕を入手して間もなく、庄野さんは名作『夕べの雲』を完成させ、読売文学賞を受賞する。
だから、庄野さんにとって、この甕は、やはり特別な存在だったはずだ。
桃山時代に作られた古備前の大甕である。
「ムカデ」
ああ、ひどく寒い。心の臓が痛みます
「ようこそ刻限通りお出でなされた」「丁度十二時を打ったところだ。お休み」「御交替、まことにかたじけない。ああ、ひどく寒い。心の臓が痛みます」(庄野潤三「夕べの雲」)
山の上の家にムカデが出て困るという話を、庄野さんは、シェイクスピアの『ハムレット』を引用しながら、楽しそうに紹介している。
「して、かの物は今夜も出ましたかな?」という言葉が、最初にある。
ちなみに、この部分の出典は、横山有策・訳『沙翁傑作集』(昭和四年、新潮社)である。
「山茶花」
何でも物事は待たなくてはならない
一本の木を植えるにも、辛抱が要る。ある時間が経たないことには、その木を注文する段取りにならない。何でも物事は待たなくてはならない。(庄野潤三「夕べの雲」)
これも「受容の文学」を確立した庄野さんらしい言葉である。
庭に植えるべき木のリストを書いてくれたのは、大浦の兄だった。
何もないところに庭木を揃えるというのは、きっと大変な作業だったのだろう。
そうか。こぬか、こぬかと降ってるか
「雨か」洗面所で髪にブラシをかけている細君は、「はい、小糠雨です」「そうか。こぬか、こぬかと降ってるか」細君の笑う声が聞える。(庄野潤三「夕べの雲」)
庄野文学では珍しいオヤジギャグである。
小糠雨と「来ぬか、来ぬか」をかけている。
彼の友人は、間伸びがすると思われる頃に「ふうん」といった
彼の友人は、聞き終ると、間伸びがすると思われる頃に、「ふうん」といった。それからひとつ頷いて、もう一回、「ふうん」といった。(庄野潤三「夕べの雲」)
間伸びすると思われる頃に「ふうん」と頷くのは、庄野さんの親友・小沼丹の癖である。
二人は酒を飲みながら、いろいろな話をしたが、このときは、庄野さんが「ポパイの親子」の話をしている。
小沼さんの母は、半年ほど前に病気で亡くなり、父は瀬戸内海に沿った町で一人暮らしをしていた。
見ている鍋の湯は沸かない
「英語の諺に」と大浦がいった。「こういうのがある。ア・ウォッチド・ポット・ネバー・ボイルズ。見ている鍋の湯は沸かない、というんだ」(庄野潤三「夕べの雲」)
安雄と二人で留守番をしたときのエピソード。
昼に食べる海苔とかつおぶしの弁当が、いかにも美味しそうだ。
「松のたんこぶ」
「沢よむどんのうなぎ釣り」という日本の昔ばなしを思い出した
三人の口からかわるがわる報告されたこの出来事を聞いた時、大浦はもう六、七年前、何かお話をしてと安雄がいう度にしていた「沢よむどんのうなぎ釣り」という日本の昔ばなしを思い出した。(庄野潤三「夕べの雲」)
これは、おそらく『日本童話名作選・澤右衛門どんのうなぎ釣り』(昭和24年、光文社)だろう。
作者は坪田譲治で、清水崑がイラストを担当していた。
当時としては、既に20年近くも前に出版された本だった。
あるところに一人の蛇使いの男がいた
大浦が二十何年も前に読んだ中国の昔ばなしにこういうのがあった。あるところに一人の蛇使いの男がいた。この男は、よく馴らした小さい蛇を箱に入れて、あちらこちらと旅をしてまわっていた。(庄野潤三「夕べの雲」)
これは、新日本少年少女文庫『志那文学選』(昭和15年、新潮社)に入っている「蛇使い」という物語である。
編者は佐藤春夫で、庄野さんの『エイヴォン記』という長編随筆の中で、詳しく紹介されている。
好きなものは、ずっと好きなままだった、というのが、庄野さんの一生涯だったらしい。
「山芋」
物事はいつまでも同じ状態で待っていてくれない
そこで、「いつか、そのうちに」ということになるのだが、物事はいつまでも同じ状態で待っていてくれない。(庄野潤三「夕べの雲」)
いつか自然薯を掘りに行こうと思っているうちに、山がなくなってしまった。
「この世でわれわれが知り合うもので、いなくなってしまわないものはない」というのが、その教訓である。
「できることは、今やろう」ということなのだが、今日、それをしないとどうかなるということでなければ、人はなかなか、それをやろうとはしないものだ。
あつあつの味噌汁でといたとろろ
お櫃の蓋をとると、湯気が天井まで上るような焚きだちの麦御飯。空きっ腹で野良から戻って、こういうのを出されたら、いったい何杯くらい、食べるだろう。(庄野潤三「夕べの雲」)
下の佐竹さんの奥さんのお国の仙台地方のとろろ汁の食べ方である。
お菜に必ず塩鮭をつける。
とても美味しそうだが、大浦家では、相変わらず関西風に、すまし汁でとろろをといている。
二十数年前に読んだこの「東遊記」の一節のせいであった
この山芋に対して大浦が特別の親しみを覚えるのは、とろろ汁の風味のせいというよりも、むしろ二十数年前に読んだこの「東遊記」の一節のせいであった。(庄野潤三「夕べの雲」)
『東遊記』は、天明年間に三年がかりで諸国を旅してまわった橘南谿の紀行集である。
大浦が学生時代に読んだものは、袖珍文庫(明治44年、三教書院)のものだったのだろうか。
庄野さんの読書体験が出てくると、つい出典が気になってしまう。
「雷」
ただいま、けえりやした
安雄がおおきな声で、「ただいま、けえりやした」というと、みんな笑った。関西生れの東京育ちがいま帰りました、という意味である。(庄野潤三「夕べの雲」)
本章「雷」は、大阪にいる母が亡くなったときの思い出を綴ったものである。
「ただいま、けえりやした」は、安雄が読んでいた武井武雄の『赤ノッポ・青ノッポ』(昭和30年、小学館の幼年文庫 )に出てくる台詞だった。
孫の「ただいま、けえりやした」を、祖母も喜んでいたという。
この「畑」の浜木綿の一株を掘って、東京へ持って帰って、庭に植えるのは、眠っている母の生命を分けて、向うの土につぐようなものではないか
シャベルで掘っている時、大浦は不思議な感じがした。自分がいま株分けしているのは浜木綿であるが、それは何かの生命に違いない。向うの部屋では、母が眠っている。何度も危なくなって、まだ続いている母の生命がある。この「畑」の浜木綿の一株を掘って、東京へ持って帰って、庭に植えるのは、眠っている母の生命を分けて、向うの土につぐようなものではないか。(庄野潤三「夕べの雲」)
実家の浜木綿を東京へ持ち帰って植えるところは、『夕べの雲』を代表する名場面である。
このとき、庄野さんは、間違いなく東京(あるいは関東)の人間となったのだ。
浜木綿は、母から受け継いだ生命を象徴する存在である。
もうあの時は、死ぬかと思った。あああ、十三で死ぬのかと思った
あとで晴子は、「もうあの時は、死ぬかと思った。あああ、十三で死ぬのかと思った」と細君にいった。(庄野潤三「夕べの雲」)
大浦家に大きな雷が落ちたのは、生田の丘に引っ越して来た、その年の夏のことだった。
大浦は、兄と二人で信州に旅行中で、細君と子ども四人が、凄まじい雷を体験した。
地元の人たちも「あんな雷が落ちたのは初めてだ」というくらいの雷だったらしい。
「期末テスト」
この次、折ったら、もうバーはないぞ
「この次、折ったら、もうバーはないぞ。全部で四本しかないんだから」(庄野潤三「夕べの雲」)
中学二年のとき、学校の競技会で、晴子が高跳びの代表選手になった。
ところが、調子が悪くて身体がバーの上に落ち、次々と三本のバーを折ってしまう。
最初は笑っていた先生も、最後には真顔で「この次、折ったら、もうバーはないぞ」と言った。
「春蘭」
ふだん食べている大根や梅干やお茶で風邪を治す方が安心なような気がする
効くのも早いかわりにどんな強い成分が入っているか分らない風邪薬を買ってのむよりも、ふだん食べている大根や梅干やお茶で風邪を治す方が安心なような気がする。(庄野潤三「夕べの雲」)
家族が風邪をひいたとき、大浦家では、大根おろしと梅干入りのお茶を飲ませる。
少しの醤油を垂らして飲むと、香ばしくておいしいものになるらしい。
風邪をひいていない者まで、風邪気味の振りをするというくらいに、大浦家では人気の飲み物である。
もう安心だと思っている時に高い熱が出ると、がっかりする
熱が出るぞ出るぞと思って待ち構えている時に出る熱なら、いくら高くても、「このくらいは出るだろう」という気持がある。もう安心だと思っている時に高い熱が出ると、がっかりする。(庄野潤三「夕べの雲」)
期待が裏切られたときほど、ショックは大きいということだろう。
このときの正次郎の風邪は、結局大根おろしと梅干入りのお茶では治らず、大浦は医者を呼んだ。
正次郎は気管支炎を起こしていたのだ。
「夕べの雲」の思い出
ちょっと目を離して、今度そちらを眺めていると、もうさっきの色と違っている
寝ころんで空を見上げると、──といっても寝ころがっているのが丘のいちばん高いところで、目を遮るものが無いから、空がひとりでに目に入る。雲が浮んでいるのだが、夕映えできれいな色をしている。それがちょっと目を離して、今度そちらを眺めていると、もうさっきの色と違っている。もう別の雲になっている。あるいは、今の今まであったものが無くなっている。刻々、変るのである。(庄野潤三「夕べの雲」)
講談社文芸文庫版『夕べの雲』には、「著者から読者へ」として「『夕べの雲』の思い出」というエッセイが収録されている。
この新聞連載小説が、どうして「夕べの雲」というタイトルになったのか。
ここでは、その理由が綴られている。
その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである
今度、日本経済新聞に書く小説には、生田の山の上に引越して来てからのことを含めて現在の生活を取り上げてみようと思っている。「いま」を書いてみようと思っている。漠然とそういう大ざっぱな考えは決っている、その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである。その、いまそこに在り、いつまでも同じ状態でつづきそうに見えていたものが、次の瞬間にはこの世から無くなってしまっている具合を書いてみたい。(庄野潤三「夕べの雲」)
『夕べの雲』のテーマは、人生のはかなさ、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありということである。
それを、大仰にではなく、三人の子どもたちとの暮らしをモチーフとして小説化しているものが『夕べの雲』という作品なのだ。
はかないのは生命だけではない。
ささやかな我々の日常そのものが、既にはかないのである。
どんなに当たり前に思えても、永遠に続くものはない(例えば、和やかな家族の団らんとか)。
といって、はかないことを嘆いたりしないのが庄野文学である。
人生ははかないからこそ、今あるものを大切しよう、今この瞬間を大切に生きようと考えるのだ。
本作『夕べの雲』には、こうした庄野文学の基本的な考え方が、しっかりと反映されている。
晩年、庄野さんは、自分の文学のスタートを『夕べの雲』だと考えるようになった。
芥川賞を受賞した「プールサイド小景」も、新潮社文学賞を受賞した「静物」も、庄野さんにとっては、本格的に走り始めるまでの助走のようなものだったのだろう。
試行錯誤を繰り返しながら「夕べの雲」に辿り着いた庄野さんは、この後、ブレることなく、「夕べの雲」の続きを書き続けていく。
やがて大きな山脈を成す庄野文学の、ここが本当の始まりだったのだ。
そういう意味で『夕べの雲』は、何度読み返しても飽きることのない名作である。
いや、『夕べの雲』から続く作品群のすべてが、読み飽きるということのない文学作品となっているのだ。
日常の中にある非日常を書き続けてきたということが、庄野文学の永遠性を物語っているのかもしれない。
書名:夕べの雲
著者:庄野潤三
発行:1988/04/10
出版社:講談社文芸文庫