庄野潤三『夕べの雲』読了。
『夕べの雲』は、庄野潤三の代表作である。
著者本人が言っていることだから、きっと間違いないだろう。
そして『夕べの雲』は、やはり庄野潤三の代表作と言っていい作品だと、今回も思った。
『夕べの雲』は、大浦夫妻と晴子(高校二年生)・安雄(中学生一年生)・正次郎(小学三年生)という五人家族の日常生活を題材とした長編小説で、当然そのモデルは著者・庄野潤三一家である。
特別な事件が起こったりするわけではないが、ささやかな日常生活の中にある「ちょっとした出来事」をスケッチしながら、人間の営みのあり方を深く掘り下げていくのが、『夕べの雲』という小説だった。
五人家族の日常風景を描く庄野文学のスタイルは、この後も続いていくが、『夕べの雲』では人間を深掘りしていく姿勢が強い。
例えば「コヨーテの歌」は、「進めラビット」という子ども向けのテレビ番組を息子たちと一緒に楽しんでいる話だが、父親の大浦は「主人公が助からなくては物語が続きっこないことは分かっている」「中年に達した大浦のような男が、ラビットとタイガーの運命に一喜一憂するのは、漫画の世界の出来事でありながら彼等がいつも旅をしているという一点で、どこかわれわれの送っている尋常な人生に似ているところがあるからだ」と、テレビアニメの登場人物に人生を重ね合わせてみる。
西部劇を観ているときも「悪人とはいえ、あんな風に撃たれて、こんなあばら家で息を引き取るのはいやだろう」「活劇にも人の生き死にになると、哀れがあった」と思ったりする大浦だから、テレビアニメの登場人物にも「命知らずの無法者の世界にも運不運があったのだろう」と、人の生きる営みを考えないではいられないのだろう。
テレビアニメの放映が終了したときも、大浦は「こういう番組はもう一年も二年も続いて来たもので、それをみている間は、いつかこの番組が終りになる日があるということを誰も考えない」「舞台の町も変りがなくて、時間の流れから置き忘れられたようにいつも同じ姿でそこにある」「みている方では、ついいつまでもこの劇が続いてゆくような気持でいる」などと、家族の生活の一部になっていた番組の終了に、人生のはかなさを感じている。
そして、その一方では「ディズニィ・ランド」という番組の「コヨーテ腹ぺこ物語」という作品を気に入った安雄が、「ピューピューピヤオー」「おいらはいつも腹ぺこ」「おいらは貧乏ぐらし」などという歌を大きな声で歌うエピソードが出てくる。
「おいらは貧乏ぐらし」なんて、知らない人が聞いたらどう思うだろうと、大浦が考える場面は滑稽で、読者の笑いを誘う場面だが、『夕べの雲』では人生のはかなさとおかしみが表裏一体として描かれている。
人は生きているからこそ笑えるのであり、その人生ははかないものだ。
だからこそ、このはかない人生を精一杯生きようではないかというメッセージが『夕べの雲』の根底には流れている。
「人は生きているからこそ笑えるのであり、その人生ははかないものだ」という思想は、最後まで庄野さんが持ち続けた庄野文学の根本とも言うべきものだが、とりわけ『夕べの雲』では、その主張が強く感じられる。
当時、庄野さんは43歳。
「プールサイド小景」(33歳)や「静物」(39歳)で一定の評価を得てはいたが、抜け出せない殻を、作家本人が一番感じていたのではないだろうか。
小説家として、読者に伝えたいこと、書いておかなければならないことが、たくさんある。
のんびりとしたエピソードの間から、作家のそんな焦りを感じた。
河上徹太郎夫妻を喜ばせた「コヨーテの歌」
「コヨーテの歌」は、庄野さんが河上徹太郎を回想する時に必ず出てくるエピソードのひとつだ。
庄野一家が河上家を訪れたとき、楽しい夕餉の団欒の中で、庄野さんは上の子(小学五年生)に命じて「夜ふけの森にひびくコヨーテの鳴き声を四回も出させた」。
「若いころから外国の一流の演奏家に接して来た河上さんも、コヨーテの鳴き声を聞かされるのははじめてだから、さぞかし面喰ったに違いない」と、庄野さんは当時を楽しく回想している。
日本テレビ系列『ディズニーランド』の「コヨーテの腹ぺこ物語」は、1962年(昭和37年)10月19日に放送された。
庄野さん41歳、長男・龍也は小学四年生、次男・和也が小学一年生のときである。
コヨーテの鳴き声で大いに盛り上がった河上さんは、アヤ夫人と二人でピアノの連弾を始めるのだが、「河上と連弾をしたのは何十年ぶりです。この家始まって以来のことです」という夫人の言葉が、この夜の賑わいぶりを表しているようだ。
書名:夕べの雲
著者:庄野潤三
発行:1988/4/10
出版社:講談社文芸文庫