レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」レビューの5回目(最終回)。
終盤のあらすじはネタバレになってしまうので省略(本当は全部紹介したいくらいにおもしろいんだけど)。
ということで、今回は「長いお別れ」の見どころ(読みどころ?)をまとめてみました。
「僕が質問に答えなければならないと書いてあるところを教えてくれないか」
なぜ、僕は「長いお別れ」を何度も繰り返し読むのか?
最大の理由は文学作品としての完成度の高さだと思う。
細部から入っていくとすると、ひとつひとつの文章表現や台詞が素晴らしい。
例えば、マーロウとテリー・レノックスが久しぶりに再会した場面の会話。
「すてきな車だ。値段は聞きたくないがね」「ぼくが幸福じゃないと思ってるんだね」「すまん。よけいなことをいった」「金があるんだ。誰が幸福になりたいなんて思うもんか」
マーロウが初めてテリーと会った場面もいい。
泥酔したテリーを介抱するマーロウに対して、駐車場係が揶揄するような言葉を言った。
白服は冷やかに笑った。「お人よしですね。あっしなら、どぶにほうりこんじまいますよ。酔いどれって奴は迷惑ばかりかけて、一文にもなりゃしない。あたしはこういう奴にはかかりあわない主義にしてるんです。油断のならねえ世の中なんだから、いざというときのために力をのこしておかなければなりませんからね」「なるほど。それでここまでになれたってわけか」
警官から尋問を受けたときのマーロウの言葉。
私はゆっくり立ち上がって、本棚からカリフォルニア州刑法を引き出して、デイトンにつきつけた。「僕が質問に答えなければならないと書いてあるところを教えてくれないか」
それに対するデイトンの言葉。
「口は割らないよ」と、デイトンが冷やかにいった。「法律書を読んでるんだ。法律書を読んでる奴は本のなかに書いてあることが法律だと思ってるんだ」
美しすぎる人妻アイリーンの書いた手紙。
時はすべてのことをみにくく、いやしく、見すぼらしくするのです。ハワード、人生の悲劇は美しいものが若くして消え失せてしまうことではなく、年を重ねてみにくくなることです。
すべてのページに名台詞が埋まっているのではないかと思えるくらいに、会話文が洗練されている。
もちろん、会話文だけではなく、描写も素晴らしい。
チュアナから帰ってくる場面。
チュアナはメキシコではない。どこの港町も港町以外の何ものでもないように、国境の町はどこの町もただ国境の町にすぎないのだ。
美しすぎる人妻<ウェイド・アイリーン>初登場の場面もすごい。
としをとった給仕がそばを通りかかって、残り少なになったスカッチと水をながめた。私が頭をふり、彼が白髪頭をうなずかせたとき、すばらしい”夢の女”が入ってきた。一瞬、バーの中がしずまりかえった。活動屋らしい男たちは早口でしゃべっていた口をつぐみ、カウンターの酔っぱらいはバーテンに話しかけるのをやめた。ちょうど、指揮者が譜面台をかるくたたいて両手をあげたときのようだった。
テレビを観ているマーロウが、ぼんやりと考えているところ。
探偵は黒人の下男を三枚目に使っていた。そんな人間を使う必要はなかった。探偵自身が三枚目だった。
カーン協会の受付の女性。
ガラスのしきりがすべるようにあいて、受付の娘が私を見た。鉄のような微笑とこっちの尻のポケットの金もかぞえられそうな眼を持っていた。
筋書きを別にして、どのページを開いて読み始めても楽しむことができる。
それが、僕が何度も「長いお別れ」を読むことのできる謎を解く鍵だと思う。
こんなことをしていて、金になるはずはないんだ。君ならこんなことはしないだろう。
もう少し、大きな視点から考えてみると、登場人物のキャラクターが魅力的だということがある。
それは、フィリップ・マーロウやテリー・レノックス、ウェイド・アイリーンといった重要な人物はもちろん、脇役に過ぎない人々のキャラクター設定にも、チャンドラーは手を抜いていない。
最初に引用した駐車場係のように、一瞬しか登場しない人間にも、存在感としてのリアリティがある。
ニューヨークの出版屋<ハワード・スペンサー>や、謎の大金持ち<ハーラン・ポッター>はもちろん、ギムレットを作ってくれる<ヴィクター>のバーテンダーでさえも。
キャラクター設定が完璧なのだ。
その中で、人間的魅力に溢れているのは、やはり、主人公のフィリップ・マーロウである。
「長いお別れ」のテーマは、友だちのテリー・レノックスが、本当に妻を殺した犯人なのかということを追求する物語だが、この件について、私立探偵マーロウは誰からも依頼を受けていないし、報酬ももらっていない。
むしろ、みんなが「この事件のことはもう忘れろ」と警告する。
マーロウを動かしているものは「テリーはそんなことをする人間ではない」という、テリーに対する友情だけだ。
彼が死んだと聞いた時、台所へ行って、コーヒーをわかし、彼にも一杯注いで、タバコに火をつけてカップのそばにおき、コーヒーが冷めて、タバコが燃えつきると、彼におやすみをいった。こんなことをしていて、金になるはずはないんだ。君ならこんなことはしないだろう。だから、君はりっぱな警官になっていて、ぼくは私立探偵になってるんだ。
テリーを守るためにマーロウは、警官から殴られ、ギャングから脅迫され、大富豪からはライセンスを取り上げられてもいいのかと警告を受ける。
全然割に合わないのだ。
この「全然割に合わないこと」のために生きているマーロウは、人間として(あるいは男性として)大いに魅力的な存在である。
ここでさよならはいいたくない。ほんとうのさよならはもういってしまったんだ。
そして、最後にもうひとつ、この小説のプロットとも言えるのが、マーロウとテリーとの友情である。
『長いお別れ』の新訳『ロング・グッドバイ』を発表した村上春樹は、そのあとがきの中で、チャンドラーの『長いお別れ』はフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにしているのではないか、といった説を唱えている。
実は、僕が初めて『長いお別れ』を読んだときに感じたことが、『グレート・ギャツビー』と似ている、ということだった(村上さんの新訳が出るずっと前の話です)。
マーロウとテリーの関係は、あたかもニック・キャラウェイとギャッビーの関係と同じように、切なくて、将来性のない友情で結ばれている。
やがて消え去る友情は、『長いお別れ』でも『ギャツビー』でも、作品として重要なテーマとなっていた。
村上さんは、細部まにまで入り込んで、その類似性を指摘しているが、僕は、この<やがて消え去る友情>という部分で、『長いお別れ』が『ギャツビー』に似ていると感じたのかもしれない。
そして、<やがて消え去る友情>は、『長いお別れ』という文学作品が持つ、最大の魅力のひとつでもある。
「君はぼくを買ったんだよ、テリー。なんともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときのなにげない動作やしずかなバーでしずかに飲んだ何杯かの酒で買ったんだ。いまでも楽しい想い出だと思ってる。君とのつきあいはこれで終わりだが、ここでさよならはいいたくない。ほんとうのさよならはもういってしまったんだ。ほんとのさよならは悲しくて、さびしくて、切実なひびきを持っているはずだからね」
マーロウがそう言ったとき、一瞬、テリーは目に涙を浮かべる。
おそらく、マーロウの目にも涙が滲んでいたのではないだろうか。
書名:長いお別れ
著者:レイモンド・チャンドラー
訳者:清水俊二
発行:1976/4/30
出版者:ハヤカワ文庫