レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」レビューの続き。
それから、すべてを忘れてもらうんだ。テリー・レノックスのすべてを。
チュアナの空港までテリー・レノックスを送って家に戻ると、既に二人の警官がマーロウを待ちかまえていた。
マーロウは若い警官に殴られるが、テリーのことは決して話さない。
「むだだよ」と、私はいった。「テリー・レノックスはぼくの友だちだった。ぼくは彼が好きだった。警官に脅かされたからって、友情を裏切りたくはない。君たちは彼を犯人と睨んでいるのかもしれない。動機も充分、情況も彼に不利だし、しかも行方をくらましてる。だが、動機と考えられてることは暗黙のうちに諒解ができていたことなんだ」(レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」)
マーロウは警察署に連行されて、さらにひどい暴力を受ける。
驚いたことに、テリーは事件のすべてを自白する手紙を残して自殺したという。
警察からの帰り道、マーロウはロニー・モーガンという新聞記者の車で送ってもらう。
事件はすべて終わったかのように思われた。
しかし、家に戻った翌日、マーロウは、腕利き弁護士のエンディコットと、大物ギャングのメネンデスから、テリー・レノックス事件には関わらないようにとの警告を受ける。
そして、テリー・レノックスからの手紙が、マーロウの元へと届く。
だから事件についてもぼくについても忘れてくれたまえ。だが、そのまえに、ぼくのために<ヴィクター>でギムレットを飲んでほしい。それから、こんどコーヒーをわかしたら、ぼくに一杯ついで、バーボンを入れ、タバコに火をつけて、カップのそばにおいてくれたまえ。それから、すべてを忘れてもらうんだ。テリー・レノックスのすべてを。では、さよなら。(レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」)
メキシコへ逃亡したテリー・レノックスからの<長いお別れ>の手紙だった。
手紙には、全米で一千枚しか流通していないと言われているマディソン大統領の五千ドル紙幣が同封されていた。
「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ」
マーロウは、警察や検事や弁護士やギャングから「テリー・レノックスは自殺した」と教えられる。
すべては終わったのだ。
マーロウに真実は分からない。
確かなことは、テリー・レノックス本人が「事件についてもぼくについても忘れてくれたまえ」「すべてを忘れてもらうんだ。テリー・レノックスのすべてを」と、手紙に書いてきたことだけだ。
長い物語の全体から見ると、これでようやく舞台が整ったわけである。
テリー・レノックスは生きているのか、自殺したのか。
そもそも、テリー・レノックスは、本当に不貞の妻シルヴィアを殺したのか。
「長いお別れ」は、マーロウがこの二つの大きなテーマと対峙するミステリー小説だが、物語は読み進むほどに複雑になっていく。
もちろん、マーロウは誰からの依頼も受けていないし、テリーの事件を追いかけても、何ら報酬が発生することはない。
マーロウを動かしているのは、純粋にテリーとの間に芽生えた友情に過ぎなかった。
マーロウは、新聞記者のモーガンと、こんな会話をしている。
私は車を降りた。「乗せてもらって、助かった。何か飲まないか」「この次にするよ。一人の方がいいだろう」「ずっと一人でいたんだ。もうあきてる」「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ」と、彼はいった。「彼のために豚箱に入っていたとしたら、それこそほんとうの友だちだったはずだ」(レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」)
「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ」というモーガンの台詞は印象的だ。
こんな印象的な言葉が、レイモンド・チャンドラーの小説の魅力でもある。
単に、ミステリー小説を読むという以上の魅力が。
書名:長いお別れ
著者:レイモンド・チャンドラー
訳者:清水俊二
発行:1976/4/30
出版者:ハヤカワ文庫