外国文学の世界

F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」名言集

F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」名言集

F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」読了。

本作「グレート・ギャツビー」は、1925年(大正14年)に刊行された長編小説である。

この年、著者は29歳だった。

原題は「The Great Gatsby」。

『ギャツビー』については、過去にも感想を書いているので、今回は『ギャツビー』に登場する名言や名フレーズ、名場面などをまとめておきたい。

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もしそれが彼女を喜ばせるのであれば、黄金の帽子をかぶるがいい

もしそれが彼女を喜ばせるのであれば、黄金の帽子をかぶるがいい。もし高く跳べるのであれば、彼女のために跳べばいい。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」村上春樹・訳)

『ギャツビー』の巻頭に掲げられているエピグラフは、<トーマス・パーク・ダンヴィリエ>の言葉である。

トーマス・パーク・ダンヴィリエとは、フィッツジェラルドの処女長篇『楽園のこちら側』の登場人物で、主人公<エイモリー・ブレイン>の良き文学仲間だった。

『楽園のこちら側』では「恐ろしいインテリ、トーマス・パーク・ダンヴィリエ」と紹介されている。

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人生は一つの窓から眺めたほうがはるかによく見える

結局のところ人生は、一つの窓から眺めたほうがはるかによく見えるのである。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

『楽園のこちら側』『美しく呪われた人たち』の前二作に比べて、『ギャツビー』は警句の少ない長篇小説である。

『楽園』も『呪われた人たち』も細部にこだわりの感じられる作品だったが、『ギャツビー』は全体のプロットをもって、一つの警句を導き出しているようにも見える。

「一つの窓から眺める」は、何か一つのことを専門的に極めた方が、人生をより理解できるという意味だろう。

夏至の日ってずっと心待ちにしているのに、毎年いつの間にか終わってると思わない?

「ねえ、夏至の日ってずっと心待ちにしているのに、毎年いつの間にか終わってると思わない? 私はいつも夏至の日のことを覚えておかなくちゃと思うんだけど、気がついたらもう過ぎちゃってるのよ」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」村上春樹・訳)

『グレート・ギャツビー』は、夏の始まりから夏の終わりまでを描いた、まさしく「ひと夏の物語」である。

物語の語り手である<ニック・キャラウェイ>が、遠い親戚の<デイジー・ブキャナン>と再会したところから、この物語は始まる。

ばかな子だったらいいな

ばかな子だったらいいな。女の子はばかなのが一番いいんだ、きれいなばかな子が。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

『ギャツビー』の名フレーズとして、非常によく知られている「ばかな子だったらいいな」は、デイジーが長女を出産したときの言葉である。

フィッツジェラルドの妻<ゼルダ>が、長女<スコッティ>を出産したときに言った言葉が、小説の中で採り入れられている。

「フラッパー」と呼ばれた1920年代の新しい女性像を象徴する言葉だ。

不注意な人たちっていけ好かない

不注意な人たちっていけ好かない。あなたのことが好きなのは、だからよね。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」村上春樹・訳)

ニックの恋人<ジョーダン・ベイカー>が、ニックに対して言った言葉。

実は『ギャツビー』は、ギャツビーとデイジーの物語でもあり、ニックとジョーダンの物語でもある(ディカプリオの映画では思いきり省略されているが)。

二人の関係が終わったとき、この言葉はジョーダンによって取り消される。

死んじまった連中の顔でいっぱいだ

死んじまった連中の顔でいっぱいだ。もう永久にいなくなっちまった友だちの顔でいっぱいだよ。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

ギャツビーのビジネス・パートナー<ウルフシャイム>の言葉。

いかにも怪しげな商売に手を染めているこのユダヤ人は、目の前で友人を殺された過去さえ持っている。

ギャツビーの闇が見え隠れする場面である。

追い求めるものと、追い求められるものがいるだけだ

追い求めるものと、追い求められるものがいるだけだ。休む暇もないものと、飽いたものがいるだけだ。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」村上春樹・訳)

ジョーダンからギャツビーとデイジーの秘密を明かされたとき、ニックは、ジョーダンのことしか考えられなかった。

そのとき、ニックの頭に浮かんだのが、この言葉である。

『ギャツビー』では珍しい警句になっている。

なんてきれいなワイシャツなんだろう

「なんてきれいなワイシャツなんだろう」しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中からこもって聞えた。「なんだか悲しくなっちまう、こんなに──こんなにきれいなシャツって、見たことないんだもの」(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

五年ぶりに再会したとき、デイジーはギャツビーの豪邸で、たくさんのシャツの山に顔を埋めて泣いた。

イギリス製の高級シャツは、富の象徴であり、再会の喜びの象徴でもあっただろう。

『ギャツビー』の中でも、非常によく知られている名場面だ。

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すべてを昔のままに戻してみせるさ

「過去を再現できないって!」いったい何を言うんだという風に彼は叫んだ。「できないわけがないじゃないか!」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」村上春樹・訳)

デイジーと再会したギャツビーが、次に望むもの、それは、彼と彼女が深く愛し合っていた、過去の時間を再現することだった。

ニックは「過去を再現することなんてできない」と言い聞かせるが、ギャツビーは「すべてを昔のままに戻してみせるさ」と断言してみせる。

ギャツビーの、この言葉こそが、本作『グレート・ギャツビー』のテーマに関わる、大きなキーワードとなっている。

明日も、明後日も、これから三十年間

「午後はあたしたち、自分をどう処理する?」と、デイズィが声を高めて言った。「それから、明日も、明後日も、これから三十年間」(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

美しいデイジーは、退屈な時間に我慢できる女性ではなかった。

享楽こそが、彼女にとっての人生だったのだ。

ニューヨークの夏の午後が好きさ

あたし、みんなが出はらうニューヨークの夏の午後が好きさ。なんだか、とても官能的なものがあるわ。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

『グレート・ギャツビー』は、ニューヨークを舞台に描いた、ニューヨークの小説である(登場人物たちは、いずれもニューヨークの人間ではなかったが)。

このとき、ベイカーの「官能的」という言葉に、デイジーの夫<トム・ブキャナン>は反応する。

我が妻デイジーが、ギャツビーに寝取られるのではないかと考えたからだ。

三十歳──今後に予想される孤独の十年間

ぼくは三十だった。前途には、新しい十年の無気味な歳月がおびやかすようにのびていた。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

ギャツビーとデイジーとトムが、とうとう修羅場を演じたその日は、ニックの三十歳の誕生日だった。

ニックは、三十歳の誕生日に「今後に予想される孤独の十年間」を感じているが、特に、独身仲間たちがどんどんいなくなっていく若者の孤独は、短編小説「リッチ・ボーイ」で描かれていた孤独と同質のものだろう。

『ギャツビー』は、二十代と三十代との境界線を描いた青春小説でもあったのだ(むしろ、そこに『ギャツビー』という作品の価値があると、僕は考えている)。

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あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある

「あいつらはくだらんやつらですよ」芝生ごしにぼくは叫んだ。「あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある」(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

『グレート・ギャツビー』最大の名言「あいつらはくだらんやつらですよ」。

ニックが、ギャツビーと交わした言葉は、これが最後となった。

「ギャツビー」が「偉大なるギャツビー」となった瞬間だったかもしれない。

なお、ディカプリオ版の映画では、「奴らは最低だ。君一人の方が、ずっと価値がある(吹替版)」「皆、クズばかりだ。君だけが価値がある(字幕版)」となっている。

友情は死んでからではなく生きているうちに示す

友情は死んでからではなく生きているうちに示すということを学ぼうじゃないですか。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

ギャツビーが死んだとき、ビジネスパートナーだったウルフシャイムは、葬式にさえ姿を現わそうとはしない。

殺人事件に巻き込まれることで、警察と関わり合いになることを、ウルフシャイムは恐れたのだ。

かつて「死んじまった連中の顔でいっぱいだ」とつぶやいたウルフシェイムの流儀は、死者に用はない、というものだった。

「Poor son of a bitch!(プア・サノバビッチ!)」

彼は眼鏡をはずすと、またその玉を拭いた。外側も、それから内側も。「かわいそうなやつめ」彼はそう言った。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

「かわいそうなやつめ」の原文は「Poor son of a bitch!(プア・サノバビッチ!)」。

そもそも「son of a bitch(サノバビッチ)」は「ヤリマンの子ども」という意味を持つ常套句で、若くして殺されたギャツビーに対する深い悲しみが、逆説的に表現されている。

この言葉を日本語で表すことは難しいらしく、村上春樹・訳では「なんともはかないものだ」となっている(なぜ?)。

作者のフィッツジェラルドが44歳で急死したとき、友人の女性詩人<ドロシー・パーカー>は、遺体の前で「Poor son of a bitch!(プア・サノバビッチ!)」と泣いて、周囲の顰蹙を買った。

当時、『グレート・ギャツビー』は既に過去の作品であり、その言葉が『ギャツビー』の台詞であることさえ、既に忘れ去られていたから。

「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った

「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った。「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには。五つほど年をとりすぎました」(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

恋人ジョーダンと別れたときのニックの言葉。

ギャツビーが死んで、ギャツビーとデイジーの物語は幕を閉じたが、ニックとジョーダンの物語もまた、この言葉で幕を閉じた。

個人的に『ギャツビー』の中で、すごく好きな場面のひとつである。

ぼくたちは過去へ過去へと運び去られながらも力のかぎり漕ぎ進んでゆく

こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。(F・スコット・フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」野崎孝・訳)

『グレート・ギャツビー』最後の一文は、『ギャツビー』を象徴する名文として知られている。

ギャツビーは、輝かしい未来を手に入れるために、デイジーとの過去を再現しようとしていた。

そこに、ギャツビーの矛盾があり、悲劇がある。

人は誰しも、過去の栄光に流されてしまいがちである。

しかし、過去の栄光の中に未来はない。

作家としてフィッツジェラルドの未来に必要なことは、過去のベストセラー作品『楽園のこちら側』から解放されることだったのだ。

なお、訳者の野崎孝は、『華麗なるギャツビー』は、開拓時代の歴史を夢見ながら発展してきたアメリカ社会そのものを描いた物語として読むこともできる、と指摘している。

『グレート・ギャツビー』が、今もなお、アメリカ本国で熱く支持される理由には、案外、そんなことが関係しているのかもしれない。

書名:華麗なるギャツビー
著者:F・スコット・フィッツジェラルド
訳者:野崎孝
発行:1974/06/30
出版社:新潮文庫

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書名:グレート・ギャツビー
著者:F・スコット・フィッツジェラルド
訳者:村上春樹
発行:2006/11/10
出版社:中央公論新社

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元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。