高峰秀子は古いモノを愛する人だった。
「コットンが好き」は、そんな彼女が愛した古いモノたちについてのエッセイ集で、目次には徳利、盃、飯茶碗、手塩皿、しょうゆつぎ、大皿、水滴、天眼鏡など、それらしいアイテムが並んでいる。
ところが、いざ文章を読み始めてみると、彼女はモノについて語りたかったのではなく、モノを通して人や人生について語りたかったのだということに気づかされる。
例えば「ふきん」の中で、白木綿に刺し子をほどこした小さなふきんをファンから贈られた彼女は、「手作りの「ふきん」を贈られるような老女になった自分自身を、私は嫌いではない。生きていて、よかった」と、手作りのふきんを通して自分の老いを前向きに受け入れてみせる。
貴重な逸品と思われるものも登場するが、それがどのくらい古いもので、どのくらい希少なもので、どのくらい高価なものであるのかといったことについて、彼女はまったく頓着する素振りを見せない。
「道具屋のオヤジが「九十年前のモノであるぞ」とイバッたけれど、ウソかホントかは分らない。いや、ウソでもホントでもかまわない。いいものは、いいのだもの」(「箸おき」)と、むしろ、アンティークとしての価値にはこだわらない姿勢を鮮明にしてみせる。
このように自由な精神で、純粋に自分の好きなものだけを蒐集してきた彼女の人生のひとつの集大成が、60歳のときに綴ったという本書なのかもしれない。
思い出を語り、思い出の中で生きる人々を語る
コーちゃんよ。お前さんが死んじゃって、デコちゃんは困っているよ。お前さんが生きていたころはさほど困りもしなかったのに、いなくなったら毎日毎日お前さんのことを思い出して、日頃あんまり出ない涙まで出てくるんで全く困っている。つまり、淋しいってことなんだね、こういうのが。
雑貨を通して、高峰秀子は自分の思い出を語り、思い出の中に生きる人々を語っているが、秀逸なのが、旧友の越路吹雪を回想した「めがね」だろう。
他の作品に比べて、あまりに抒情的すぎるこのエッセイは、彼女がいかに越路吹雪を慕っていたかという愛情に満ち溢れていて、ページ数も圧倒的に多い。
仕事で地方に出ていたため、彼女の葬儀に出席することも叶わなかったと言いながら、「たとえ東京にいたとしても、私、お通夜に行ったかどうか分からない。だってコーちゃんの死に顔を見に行ったって、コーちゃんは生き返っちゃくれないだろう?」と綴る彼女の文章は、殊に胸を熱くさせるものがあった。
そして、こうしたエピソードは、島崎藤村が旧友・平田禿朴の葬儀に出席しなかったという話と類似の、言わば達観した人たちの人生訓と受け止めることができるのかもしれない。
ビッグメゾンよりも市井に残る無銘の小物を愛す
私たちは土台の悪さをコマ化すためか、内容の貧しさをおぎなうためか、ピエール・カルダン、クリスチャン・ディオール、イヴ・サンローラン、グッチ、エルメス、などという、有名銘柄にめっぽう弱い。見ための立派さ美しさに頼るのは、贈りもののアゲ底スタイルにも似て、いっそうみずからの貧困さを披瀝しているような気がしてならない。(「ニューヨークの黒人」)
高峰秀子の幼少期は決して幸福なものではなかった。
生母を結核で早くに亡くし、育ての母親のもと、子役の役者として働き続けた彼女は、厳しい暮らしの中で、物事の本質を見極める力を自然体で身に着けたのだろう。
一見豪華できらびやかなビッグメゾンのアイテムよりも、市井に残る無銘の小物を愛したのは、彼女が本質を重んじたからに違いないし、何より、彼女自身が本質を見極める目を有していたということに他ならない。
本質を見誤ることさえなければ、人の暮らしというのは豊かになれるし、幸せになれる。
他愛ない小物を通して、そんな彼女の生き方が語られている。
書名:コットンが好き
著者:高峰秀子
発行:2003/1/10
出版社:文春文庫