高橋一清『百册百話』で、庄野潤三『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』が紹介されている。
『百册百話』は、平成24年(2012年)から26年(2014年)まで、毎日新聞(島根・鳥取両県版)に掲載されたものだ。
あとがきには「係わった作品、親しんだ本、忘れがたい思いを出のなかの書物をめぐって書き、本にまつわる話題で自ら生きた証をする回想記を綴っているような感じもしなくもない」「作品成立の経緯、出版界の事情、そして作家の様子など、当事者のみが知る事実に藻触れているから、編集者が見た昭和から平成の文藝とその状況を伝えるものと受けとめていただいてもいいかと思う」と記されている。
著者の高橋一清さんは、文藝春秋に勤務した38年の間、「文学界」「別冊文藝春秋」「文藝春秋」「週刊文春」「オール讀物」「文藝春秋臨時増刊」の各誌で部員として働き、「別冊文藝春秋」と「文藝春秋臨時増刊」では編集長も務めた。
編集者の私が、最も多く訪問した作家は庄野潤三さんである。
編集者の私が、最も多く訪問した作家は庄野潤三さんである。昭和42(1967)年4月に文藝春秋に入社し、担当となり伺った日から、平成17(2005)年3月に定年退職するにあたり挨拶に上がった日までの38年間は、幾冊もの書籍の形となり、今日に残っている。(「陽気なクラウン・オフィス・ロウ 庄野潤三」)
一人の編集者の誕生から引退まで、そのビジネスマン人生を看取るのだと考えると、作家というのは、実に気の遠くなるような息の長い商売だなと思う。
いや、すべての作家が、そのように長く、一人の編集者と関わり続けるわけではないだろう。
辛抱強い編集者と粘り強い小説家との阿吽の呼吸のようなものが、そこにはあったのではないだろうか。
何より、庄野さんが極めて息の長い作家であったということに尽きるかもしれないが。
「ロンドンへ行ってラムの書いた街を観てみませんか」
昭和55(1980)年の始めであった。私は抱き続けていた企画の提案をした。「ロンドンへ行ってラムの書いた街を観てみませんか」この誘いに、庄野さんは即答した。「妻を伴って行きます」この年5月の庄野さんの十日間のロンドン滞在記は、次の昭和56(1981)年の晩秋から書き始められ、「文学界」に連載された。(「陽気なクラウン・オフィス・ロウ 庄野潤三」)
チャールズ・ラムは、庄野さんが生涯をかけて愛したイギリスの随筆家である。
中学校を卒業して、上級学校に進んだ年、庄野さんは丸善でラムの『エリア随筆』を買っているが、これが生まれて初めて買った洋書だった。
その後、ラムの随筆をこよなく愛した庄野さんは、小説執筆の合間に綴る随筆の中で、繰り返し、このラムの『エリア随筆』を取り上げている。
ラムが暮らし、エッセイに描かれたロンドンの街は、庄野さんにとって、きっといつかは訪れてみたい街であったに違いない。
庄野さんはラム縁の街を歩いて情景を描き、ラムの随筆の世界を重ねる。
庄野さんはラム縁の街を歩いて情景を描き、ラムの随筆の世界を重ねる。そして、中学生のころラムを語り聞かせてくれた恩師や、同じようにラムを愛読し『チャールズ・ラム伝』を書いた福原麟太郎さんとの思い出を語る。そうした中に、庄野夫人が求めた果実、またレストランの料理の記述がなされ、ロンドン滞在を文字通り味なものにしている。(「陽気なクラウン・オフィス・ロウ 庄野潤三」)
『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』は、10日間のロンドン滞在記だが、単なる旅行記ではなく、チャールズ・ラムや福原麟太郎の著作から多くの引用を加えて、チャールズ・ラムの生き様を語る重厚な評伝としての役割も果たしている。
創作ではないので出番が少ないのかもしれないが、福原さんの『チャールズ・ラム伝』に劣ることのない、間違いなく名著と呼ばれていい作品だ。
『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』の連載が終わって書籍化される際、人事異動で出版部に移っていた高橋一清さんが、この作品を担当したという。
「そもそもの始まりから仕上げまでたずさわった、私には思い深い作品である」という締めくくりの言葉に、著者の感慨を感じた。
書名:百册百話
著者:高橋一清
発行:2014/5/20
出版社:青志社