(2023/05/30 17:48:09時点 Amazon調べ-詳細)
この本のテーマは、「骨董やアンティークを一万円で買って見よう」ということである。
一万円でアンティークが買えるのか?との疑問も浮かぶが、本書には、著者(末続堯)が実際に一万五千円以内で購入したアイテムが、骨董50篇・アンティーク50篇として紹介されている。
きっちり一万円以内でないのは、この価格帯の商品は、お店によって価格が変わりやすいという理由があるからだ。
ある店で一万五千円で売っているのと同じものを、別の店では千円で売っているかもしれない。
そういう意味で、「一番掘出物があるとすれば、このジャンルではなかろうか」と、著者は指摘する。
どんな趣味にもステップがあるとすれば、骨董蒐集の入門編は、まずは「一万円の骨董・アンティーク」からだろう。
だから、本書は、これから骨董やアンティーク蒐集を始めたいと考える人にとって、格好の入門書になってくれるはずである。
一万円で骨董アンティークを探すということは恥ずかしいことでもなんでもない。
もっと肩の力を抜いて、日用品、それもひと昔前誠実に作られた日用品を探すつもりで始めれば良いのである。
骨董アンティークは、年寄りや金持ちの趣味であるという時代は、とうの昔に過ぎ去った。
などなど、この本の著者は、本当に良いことを快い言葉で伝えてくれる。
旅先で骨董屋を訪れることの楽しさ
長崎を訪れたのは四十五年ぶりぐらいである。原爆の被害が未だ残されていたあの頃にくらべて、今の長崎はその片鱗すらもとどめていない。長崎の骨董屋さんは大方眼鏡橋の近くに集まっている。そのあたりで二~三軒を覗いたあと、めぼしいものがないので橋の先を折れ、広い通りに出たところで古美術の看板に出くわした。(「平戸の美人杯」)
この店で著者は、染付の呉須が鮮やかな白い器肌の小さなリキュール杯を見つけて帰る。
「二客あったが、あとに楽しみを残すために一客しか買わなかった」が、「あの時ケチらずに、もう一客買っておけば良かったと今になって思っている」とあるのは、ベテラン蒐集家の教訓を、読者にも共有してほしいということだろう。
地元の平戸産だというこの白い杯には、青い呉須で花魁の図柄が描かれている。
素敵なアイテムを入手したのだから「ヒゲをはやしたオランダさんは、おいらんを脇にはべらせて、チビリチビリとこの杯でリキュールを飲んでいたものであろう」と、著者の妄想もたくましくなるはずだ。
旅先で骨董屋を訪れることの楽しさが、こうしたエッセイからも伝わってくる。
流行の先に訪れる未来
最近は時間の流れが早い。年をとったせいかとも考えて見たが、昔とちがい、今は時代の移り変るスピードが早いのである。恐らく平成の一年は、江戸の百年にも相当しよう。だから骨董屋さんの前では、たとえそうでも、決して「ウチにもある」「ウチで使ってる」と口にしてはいけないのだ。(「ノリタケのカップ」)
ノリタケと言えば、明治期にアメリカに輸出された「オールド・ノリタケ」に人気があるが、著者は「「盛り上げ」と称するブツブツの装飾がいささか煩縟で、私の趣味には合わない」として、大正時代に作られた英国帰りのノリタケを紹介してみせる。
明治期のノリタケには、アール・ヌーヴォーの影響を受けた装飾過多のド派手なものが多いが、「大正に入ってからの、このようなアール・デコ様式のスタイルや絵柄の方が、何故か安心して身を委ねられる」という著者のノリタケは、いかにも洗練されたモダンでスタイリッシュなデザインで、現代でも十分に通用するのではないかと思われるものだ。
「一九五十年代六十年代のものまでが、美術館、博物館に収蔵されつつあることに、もっと注意を払う必要がある」という指摘は、流行の先に訪れる未来に注目しろという、著者流の警鐘だろう。
本書を読んで感じることは、骨董アンティーク蒐集の自由な楽しさである。
堅苦しいことは言わないで、まずは飛び込んでみたい。
書名:一万円の骨董・アンティークス
著者:末続堯
発行:1999/2/1
出版社:京都書院アーツコレクション