「屋上」は、昭和50年から55年までの5年間に、各文芸誌に掲載された短編16篇を一冊にまとめた、庄野潤三の作品集である。
それぞれの作品に直接的な関連性はなく、各々に独立した作品ではあるが、いずれの作品も庄野文学という大きな文脈の中を流れる作品となっている。
例えば、「五徳」「やぶかげ」「かたつむり」「分れ道の酒屋」「コルクの中の猫」「双眼鏡」は、いわゆる「山の上の家」を舞台とする、庄野文学の王道的な流れに位置する作品群である。
また、「割算」「伊予柑」も、「山の上の家」の界隈で暮らす市井の人々をモデルとした、これも「山の上の家」シリーズの系譜となる、典型的な庄野文学の作品である。
この「割算」「伊予柑」は、いずれも著者行きつけの床屋を舞台とした物語であり、他にも類似の作品が見られることを考えると、この床屋の存在は、庄野文学にとって重要なモチーフとなっていたようである。
「屋上」「かまいたち」「家鴨」「写真屋」は、山の上の家を離れたところで描かれる市井の人々の物語で、病院や電車の中で偶然に一緒になった見知らぬ人たちの他愛ない会話をスケッチしたものである。
普通の人々の何気ない会話を物語に仕立てる手法は、庄野潤三の得意とするところで、「とにかく、子供と会わせるのは反対だよ。よく分ってほしいんだ、これだけは。おれも姉さんも親父がいなくて、苦労したんだもの。だから、いうんだよ」などと公衆電話で話す若者の会話は、読者の想像力を膨らませてくれる。
いずれの作品にも共通して言えるのは、市井で生きる人々に対する著者の関心の高さであり、その描写は決して批判的にではなく、あくまでも好意的に親愛の目を持って描かれているということである。
そして、余計な心理描写を極力省きながら、他者の会話の組み合わせによって物語を紡ぎ出す構成は、簡素でありながら、文学というものの原点を感じさせてくれるものだ。

もっと読みたい「庄野文学の中の旅行記」
寒くなったので、雑巾がけをすると手がかじかむから、いいというと、自分の手を出して真直に伸ばしてみせて(そこでおばあさんは、孫に似て白い手を出した)、「ほら、何ともない」といいました。かじかんでなんかいないといいます。そんな子でした。よその人が、この子は楽しみだといっていたら、七つで亡くなりました。学校へ上ってからだと思います。男の子ですかと私が聞くと、おばあさんは、「いえ、女の子です」といった。(「菱川屋のおばあさん」)
「菱川屋のおばあさん」は、佐原を訪れたときの旅行記だが、前半が紀行になっているのに対して、後半は、庄野文学の重要な位置を占める「聞き書き」の体裁で、旅館の老婆に取材した短編となっている。
いつも考えることだが汽車に乗って、昼になり、こうして弁当を取り出す。食べてしまうと、大切な用事はこれで終ったような気持になる。だからなるべく急がずに食べようと心がけるが、実際に風呂敷包みの結び目を解き、中に入っている柳行李の蓋を取って、いざ箸を手に持ったとなると、坂道を駆け出すような勢いで食べてしまう。二人ともそうなる。(「三河大島」)
「三河大島」は、夫婦で海水浴に出かけた際の旅行記だが、「山の上の家」を離れたときの著者は、まるで子どものように純真爛漫な視点で、旅を楽しんでいる。
こうした旅行記では、周囲の人々の会話よりも、庄野夫妻の行動そのものに焦点が当てられることになるが、文学者というよりも一人の旅行者としての姿勢で、旅そのものを楽しむ様子が描かれている素朴な紀行文は、修学旅行の感想文にも似て、旅の楽しさを純粋に味わうことができる。
「山の上の家」の物語のように、文学作品としての評価が語られる作品とは異なるが、旅の楽しさを伝える佳作であり、「庄野文学の中の旅行記を、もっと読みたい」という欲求にかられた。
多彩で味わい深い庄野文学の世界
日本にいてもこの年まで自分で登山用の靴一足買いに行ったことの無い人間が、英国に生れたからといってそんなによく歩くわけがない。せいぜい自分の家から二キロ四方くらいの範囲を、それも申し訳のように歩くだけで満足しているに違いない。じっとしていても「苦痛と楽しみ」の種はあるし、生きている限りそれが無くなることもない。(「ある健脚家の回想」)
「ある健脚家の回想」は、イギリスの古いエッセイについて書かれた、ひとつの読書感想文だが、庄野潤三の作品には、このように文学作品を引用して、その感想について綴るといった形のものが、実は少なくない。
そこで紹介される文学作品の多くは古いものであって、必ずしも現代性のある作品とは言い難いものも含まれているが、文学に対する著者の愛情が感じられるし、読書欲を刺激してくれるという意味で、文学案内として持つ意義は少なくないと思われる。
こうして振り返ってみると、「山の上の家」の物語から旅行記、聞き書き、読書感想まで、この「屋上」という短編集には、庄野文学の持つ多様な輝きが一冊の本としてまとめられていることに気づかされる。
実は、本の帯には「庄野文学の精髄 珠玉の十六短編」と記されているのだが、本書を読み終えた後で「精髄」「珠玉」の言葉は偽りではないと思ったし、これまで文庫化されていないのが残念なくらいである。
いろいろな味わいの庄野文学を楽しむことができる、まるで「かきまぜ」のような作品集だ。
ちなみに、最後の作品「モヒカン州立公園」は、アメリカ留学中の体験を綴った「ガンビア」シリーズの物語である。
庄野文学は鮮やかすぎるほどに味わい深い世界だ。
書名:屋上
著者:庄野潤三
発行:1980/2/15
出版社:講談社