庄野潤三の世界

庄野順三「イソップとひよどり」ゆるさの中に漂う見識と教養

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庄野潤三の随筆はゆるい。

例えば、表題作「イソップとひよどり」の中で、著者は、庭にやってきたひよどりを観察しながら、その不自由そうなくちばしの動きを見ているうちに、「イソップ物語」を思い出す。

浅いさらに入ったスープを出されて、ちっとも飲めない。どうにもならない。あれは何だったのだろう? 相手は? そういう悪だくみをするのだから、きつねだろう。(略)あれは「きつねと何」の話だろう? これは簡単な問題のようだが、答えはすぐに浮かんで来ない。(「イソップとひよどり」)

あれは「きつねと何」の話だろう?と前振りをして、さあ、本題に入るのかと思ったら、イソップ物語の話はそこで終わって、何事もなかったように、またひよどりを観察している。

著者は、本当に「あれは何の話だっただろう?」と思っただけだったのだ。

それが「何の物語」であるかということについて、それ以上、考える必要もないから、そのまま、ひよどりの観察に戻っていったのだろう。

ゆるすぎる。

庄野潤三のキャラクターは。「昔の友」の中でさらに明確になる。

「昔の友」は、三島由紀夫と山岡久乃と庄野潤三の3人で、今観たばかりの映画の感想について対談をしたときの回想だが、対談は庄野潤三を取り残して、三島と山岡の二人でどんどん進んでしまう。

恰も私がその場にいないかのような状態で時間がたって行った。私は何かいわなければいけないと思うのだが、うまくゆかない。それに、三島由紀夫は、山岡さんの方を向いたきりで、ちっともこちらを見ない。(略)私は、何かいった。すると、びっくりしたように三島由紀夫は振り向いた。(「昔の友」)

庄野さんは、三島由紀夫と昔なじみの関係だったので、あれは「旧知の煩しさ」から出た、三島の「はにかみ」だったのではないかと回想するが、対談でぽつんと取り残されている庄野潤三の姿に、我々はいかにも庄野潤三らしい姿を見つけたような気がする。

そして思うのだ、これではまるで穂村弘ではないか、と。

「イソップとひよどり」は、全編にわたって、そんなゆるさが漂う癒しの随筆集である。

もっとも、庄野潤三の随筆は、文学作品や文学仲間に言及したものにこそ、本当の価値がある。

新潮社で原稿を書いている時、庄野さんは檀一雄と一緒になり、少しの間、二人きりで世間話をする。

この時、ちょっとの間ではあったが、珍しくしみじみと檀さんが話をした。いまのままで、新聞小説を書かずに十年、続けていけたらという意味のことを私にいった。こちらは新聞小説を書く才覚を持たないから、注文が来る心配はない。無論、檀さんもそんなことは承知の上で、生活をひろげず、なるだけ質素に暮して行くようにすればいいといったのだろう。(「磯の小貝」)

著者は檀一雄の署名が入った「虚空象嵌」(昭和14年・赤塚書房)を本棚から取り出してきて、署名とともに記されていた「潮騒や磯の小貝の狂ふ迄」の句を紹介して、この随筆は終わる。

本随筆集の中で一番最後に収められた作品だが、随筆としてまさしく名作だと思う。

庄野潤三は、読書体験について書くことを得意とした作家で、本書の中でも「精進祭前夜」(チェーホフ)、「エリア随筆」(チャールズ・ラム)、「トルストイ童話」(十和田操)、「人生・読書」(福原麟太郎)など、多くの文学作品についての感想が綴られている。

本随筆集が昭和51年の刊行であることを考えると、もとより、紹介されている書籍は昭和中期以前に刊行されたものばかりである。

著者の青年時代の読書体験を綴ったものなどは、戦前戦中に刊行された本だって登場する。

多くは現代では忘れ去られたものばかりなので、古い文学作品に興味がある人間にとっては、この古い書評が非常に役に立つ。

庄野さんの随筆を読むことで、現代の読者も新しい読書体験の道を切り拓くことができるだろう。

ゆるさの中に漂う見識と教養に触れる。

それが庄野潤三の随筆の楽しみ方だ、と伝えたい。

署名:イソップと物語
著者:庄野潤三
発行:1976/6/20
出版社:冬樹社

 

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じゅん
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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。