庄野潤三さんの「ザボンの花」を読みました。
庄野潤三の家族小説は、ここから始まったんですよね。
書名:ザボンの花
著者:庄野潤三
発行:2014/4/10
出版社:講談社文芸文庫
作品紹介
「ザボンの花」は、庄野潤三さんの長編小説です。
富岡幸一郎さんの解説によると「『ザボンの花』は1955年(昭和30年)、庄野潤三が34歳の年に「日本経済新聞」に連載され、翌56年7月に単行本として刊行され」ました。
新聞連載が始まったとき、庄野さんは芥川賞を受賞したばかりで(芥川賞受賞は昭和30年1月、『ザボンの花』の連載開始と同じ年です)、文庫カバー文にも「一生のうち、書くべき一番いい時に書かれ」とあります。
晩年まで続いた、庄野さんの家族小説の原点であり、庄野さんにとって初めての長編小説でもあります。
『ザボンの花』から庄野潤三独特の家庭小説が始まる。これは、著者にとって最初の長篇小説であり、麦畑の中の矢牧家は、彼がまさに創りつつある、新しい家庭であり、生活を愛し育んでいく本質と主張を、完成度の高い文学作品にしあげている。一生のうち、書くべき一番いい時に書かれ、やがて『静物』『夕べの雲』へ続く作品群の起点でもある。(カバー文)
あらすじ
富岡幸一郎さんの解説を引用すると、「ザボンの花」は「大阪から東京の郊外へと引っ越してきた矢牧家の三人の子供たち、小学四年生の長男の正三、妹の二年生のなつめ、あと二年で幼稚園にはいる四郎の様子が素朴にいきいきと描かれている」家族小説です。
子供たちの両親である矢牧と千枝、隣人の村田家との交流を通して、子供たちの毎日の暮らしの中には、様々なドラマが巻き起こりますが、その家庭ドラマは特別の物語ではなく、どこの家庭にも当たり前に見られる出来事ばかり。
しかし、どんなに普通の暮らしの中にも、子供たちにとっては「大きな事件」となりうる物語が潜んでいるのです。
長篇小説ですが、一章ごとに完結した作品となっているので、連作短篇集のように読むことができます。
目次///第一章 ひばりの子/第二章 よき隣人/第三章 赤い札入れ/第四章 えびがに/第五章 ゴムだん/第六章 音楽会/第七章 こわい顔/第八章 はちみつ/第九章 麦の秋/第十章 やどかり/第十一章 星/第十二章 アフリカ/第十三章 子供の旅行/第十四章 映画館/第十五章 花火/第十六章 夏のおわり///解説(富岡幸一郎)/年譜(助川徳是)/著書目録
なれそめ
古本屋で見つけた「ザボンの花」には、中表紙にサインがありました。
青い万年筆で書かれたサインは「平成二十六年五月一日」と日付に続いて「庄野潤三(代)庄野千壽子」とあります。
講談社文芸文庫版「ザボンの花」の刊行が平成26年4月なので、このサインは文庫本が刊行されて、すぐに書かれたものだと思います。
著者の庄野潤三さんは、平成21年9月に亡くなられているので、奥様の千壽子さんが、夫のサインを代筆したものと思われます。
宛名には、とある著名な国文学者夫妻の名前が、青いインクでしたためられていました。
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
日々の暮らしは海の色が刻一刻と変わるように微妙に変化していた
浮き沈みがあったというわけではなく、一日一日は全く同じことの繰返しのように思われた、変化のない暮しであったのに、こうして振り返って見ると、海の表面の色があるところでは水色に、あるところでは藍色に、またあるところに違った色に見えるのに似ていた。(「第六章 音楽会」)
庄野文学の本質が適切に表現されている文章を見つけました。
日々の暮らしは、毎日同じことの繰り返しのように見えて、あとから振り返ってみると、それはみんな違う一日でした。
海の色がみんな同じ色に見えて、実はどれもみんな違うように、人の生活というものにまったく同じ一日はない。
大きなドラマはないかもしれないけれど、小さな機微があるからこそ人生はおもしろい。
そして、どんなに当たり前に見える普通の暮らしも、決して永遠のものではない。
庄野文学の根底には、そんな「人間のはかなさ」が流れているのではないでしょうか。
それを手にしていた人間だけがいなくなってしまって、物だけが同じすがたで、さり気なしに残っている
父が使っていた品物や読みかけていたらしい本を、矢牧は静かな、親しみのある気持で眺めた。それを手にしていた人間だけがいなくなってしまって、物だけが同じすがたで、さり気なしに残っている。それを矢牧は好ましく思って見ているのであった。(「第十五章 花火」)
夏休みに大阪の実家へ帰省した矢牧は「父が晩年に寝室にしていた離れに寝泊まり」します。
「その部屋には、父がウイスキイをしまいこんでいた洋服箪笥や整理棚」があって、「そこにあるものは、父が生きていた時のままのかたちで残されて」いました。
「そのような品物には、みな父の思い出が残っている」と、矢牧はかつての父を懐かしく思い出します。
そして、「それを手にしていた人間だけがいなくなってしまって、物だけが同じすがたで、さり気なしに残っている」という人生の真実にたどり着いて、なんとなく愉快になっているのです。
何気ない一節ですが、人間の一生を受け入れる主人公の姿勢が表された、重要な場面だと思いました。
矢牧は、なくなった昔と、この小さい子らとのちょうど真中に立っているのだ
なつかしいプラタナスの木は、それを植えた矢牧の父とともに、この家から姿を消してしまった。そして、いま家の中を声を上げて走りまわっているのは、戦争が終ったあとで生れて来た子供たちだ。矢牧は、なくなった昔と、この小さい子らとのちょうど真中に立っているのだ。(「第十五章 花火」)
同じく「第十五章 花火」の中で矢牧は、かつて父が庭に植えたプラタナスの木を回想しています。
多くの思い出を残したプラタナスの木も既になく、その頃には生まれていなかった自分の子供たちが、自分が育った実家の中を走り回っているだけです。
おぼつかない足取りで、家の中をそろそろと歩きながら、まわりで騒ぐ孫を微笑して見守っている母を見て、矢牧は「この母は、プラタナスや父よりも長く生きて来た人だ」と考えます。
「自分が育って来た古い家の中で、なくなった昔と、新しい生命をながめ」ながら、「矢牧の心にはかすかな悲しみが生じ」て、矢牧は「それは、いったい何の悲しみだろう?」と考えるのです。
どうやら、この小説のクライマックスは、全16章の中の15章目に設定されているようです。
この15章目を語るために、庄野さんは14章までのさりげない日々のドラマを積み重ねていたのではないでしょうか。
それは15章目だけを読んで理解できるものではなく、14章目までを読んだからこそ理解できる、人生の真実だというような気がします。
読書感想こらむ
ひとつひとつの物語は、特段にドラマチックというわけでもないのに、読み進めていきながら、なぜか人の一生というものを考えさせられる。
「ザボンの花」は、そんな小説だと思います。
全然説教くさいところがなくて、どちらかと言えば、のんびりとしたリズムの、まるで日記みたいな物語なのに、ひとつひとつの物語にちゃんとポイントがあって、それがしっかりと人生の真実と向き合っている。
もちろん僕たちは日頃から、「人生」なんていう難しいことを考えながら生きているわけではありません。
むしろ、難しいことなんて考えることなく、自然体で生きているだけなのに、その自然体の暮らしの中に人生の真実があるんだということを、この小説は教えてくれます。
今年になってから庄野潤三さんの作品を少しずつ読み進めてきて、裏切られた作品はただひとつとしてなかったけれど、ここまで読んだ中での最高傑作だと感じました。
「我が人生の100冊」に加えたいと思える、そんな名作です。
まとめ
「ザボンの花」は、庄野潤三さんの家族小説の原点と言うべき作品です。
庄野潤三さんに関心のある人であれば、必ず読んでおくべき名作。
講談社の文芸文庫に入ったことに感謝したい。

著者紹介
庄野潤三(小説家)
1921年(大正10年)、大阪生まれ。
1955年(昭和30年)、芥川賞を受賞。
新聞小説「ザボンの花」連載時は34歳だった。