庄野潤三さんの「夕べの雲」を読みました。
さすが名作、さすが傑作、さすが代表作!
書名:夕べの雲
著者:庄野潤三
発行:1988/4/10
出版社:講談社文芸文庫
作品紹介
「夕べの雲」は、庄野潤三さんの長編小説です。
1話1話が完結している、全部で13の物語(章)で構成されています。
(目次)萩/終りと始まり/ピアノの上/コヨーテの歌/金木犀/大きな甕/ムカデ/山茶花/松のたんこぶ/山芋/雷/期末テスト/春蘭///著者から読者へ「『夕べの雲』の思い出」/解説(阪田寛夫)/作家案内(助川徳是)/著書目録
1964年(昭和39年)9月から1965年(昭和40年)1月まで、日本経済新聞夕刊に連載され、単行本は1965年(昭和40年)3月に講談社から刊行されました。
文庫版のあとがきにあたる「著者から読者へ『夕べの雲』の思い出」の中で、著者の庄野潤三さんは「今度、日本経済新聞に書く小説には、生田の山の上へ引越して来てからのことを含めて現在の生活を取り上げてみようと思っている。「いま」を書いてみようと思っている」と回想しています。
1966年(昭和41年)2月、読売文学賞受賞。
1966年(昭和41年)12月には、リッカ・須田敦子さんの訳によりイタリア国内でも翻訳刊行されています。
あらすじ
「夕べの雲」は、主人公である「大浦」の視点で語られている家族小説です。
登場人物は、大浦、大浦の細君、晴子(高校2年生)、安雄(中学生)、正次郎(小学3年生)の家族5人で、ここに、大浦の兄や友人、近所の人たちが絡んだりします。
特別のストーリーが展開されるというよりは、季節の移り変わりの中で生きる家族の日常風景がスケッチ的に描かれています。
その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである。その、いまそこに在り、いつまでも同じ状態で続きそうに見えていたものが、次の瞬間にはこの世から無くなってしまっている具合を書いてみたい。(「著者から読者へ『夕べの雲』の思い出」)
そこで描かれている季節や家族は、主人公の「大浦」にとってごく身近な存在のものですが、それは決して永遠のものではありません。
季節は過ぎゆくものであり、子どもたちは成長してゆくものである。
雲の形が刻一刻と変化していくように、同じように見えながらも絶えず変化し続けている日常生活の「今」が、そこにはあるのです。
なれそめ
庄野潤三さんの「小説」を読むのは、『せきれい』『インド綿の服』『貝がらと海の音』に続いて4作目です(『エイヴォン記』は長編随筆だった)。



庄野さんの作品を、手当たり次第に読んでいるうちに、庄野さんが考えている代表作は『夕べの雲』という小説だということを知り、「いずれは読まなければいけない」と考えていました。
一方で、「代表作は後の楽しみに取っておいてもいい」という気持ちもありました。
系統的に研究しながら読むというよりも、日頃の読書を楽しむ中で、庄野さんの作品を少しずつ読み進めていきたいという気持ちがあったからです。
結局のところ、『夕べの雲』を読む機会は、思ったよりも早くやってきたんですけれどね。
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
先でどんな風に思いだすだろうか
ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思いだすだろうか。(「コヨーテの歌」)
「夕べの雲」は、タイトルが刻一刻と変化し続ける夕暮れの雲の形を意味しているように、平凡な家族の生活も、いつの日か遠いものとなってしまうものであるということを、大きな主題とした家族小説です。
日常生活の中の些細な出来事も、現在の「一瞬」に敏感になることで、時にそれは大きな意味を持つことになる。
本作の随所に現れる、主人公「大浦」の鋭敏な感覚こそが、この穏やかな家族小説を、「感傷的な作品」としても「哲学的な作品」としても読むことができる、「深い作品」に仕上げていると言えるのでしょう。
いつから工事が始まるのか、知らない。いずれ近いうちに始まることは確からしいが、少なくとも今すぐということはない。それなら、この山がこのままの姿をしている間にうんと楽しもうじゃないか。(「コヨーテの歌」)
批判でも愚痴でもない。
ただ「今」を、あるがままに受け止めているのです。
向うの部屋では、母が眠っている
シャベルで掘っている時、大浦は不思議な感じがした。自分がいま株分けしているのは浜木綿であるが、それは何かの生命に違いない。向うの部屋では、母が眠っている。何度も危なくなって、まだ続いている母の生命がある。この「畑」の浜木綿の一株を掘って、東京へ持って帰って、庭に植えるのは、眠っている母の生命を分けて、向うの土につぐようなものではないか。(「雷」)
実家の庭にある浜木綿を株分けして、東京へ持って帰る。
シャベルで土を掘りながら、その行為があたかも「母の生命」の一部を株分けして、東京へ持って帰る行為のように、大浦は考えます。
それから半月後に、大浦の母は逝去しますが、「母の生命」の一部を株分けしたという事実が、大浦の心の大きな慰めとなりました。
東京の大浦家の庭に植えられた浜木綿を見るたび、大浦は、自分の母と、「母の生命」を株分けした日のことを思い出しているのです。
昔の人は、本当にいいことを教えてくれる
良薬は口に苦しというが、大浦の家で誰かが風邪をひいた時に飲ませる大根おろしと梅干入りのお茶は、口に苦くなくて、よく効く。昔の人は、本当にいいことを教えてくれる。(「春蘭」)
「夕べの雲」の連載が開始された1964年(昭和39年)は東京オリンピックが開催された年です。
大きなテーマは普遍的なものに違いありませんが、そこで描かれている家族の暮らしは、1960年代の日本で生きる平均的な家族の姿です。
ちょっとした日常風景の中に、ある時代の日本が見えるような気がします。
例えば、大浦家では誰かが風邪をひくと、お茶に梅干しと大根おろしを入れて醤油を垂らしたものを飲みますが、これがすごくおいしくて、家族みんなの大好物。
これを飲みたいがために、子どもたちが風邪気味のふりをしたりしている場面は、とても微笑ましくて、そこにある種のリアリズムが感じられます。
日本の家族の一つ一つに、それぞれの「夕べの雲」がある。
そんなことを感じました。
読書感想こらむ
これまでに読んだ庄野作品と大きく違うところ。
それは、この小説が「3人称」で描かれているということです。
舞台が庄野家であり、登場人物が庄野一家であるというモチーフは変わらないのに、主人公が「大浦」という一人の中年男性になることで、「夕べの雲」はいかにも小説らしい作品となっています。
晩年の作品に比べると、一つ一つの文章や物語の展開にも文学的な配慮(装飾と言うべきか)が感じられ、「夕べの雲」が文学作品として高いレベルを維持していることが分かります。
この作品を読み終えたとき、庄野さんが「自分の代表作は『夕べの雲』だ」と考えていたという理由が、やっと分かりました。
まとめ
「夕べの雲」は、庄野潤三さんの代表作です。
何気ない日常も変わり続けている。
だから「今」を描くのです。
著者紹介
庄野潤三(小説家)
1921年(大正10年)、大阪生まれ。
1955年(昭和30年)、「プールサイド小景」で芥川賞受賞。
「夕べの雲」刊行時は44歳だった。