真壁仁「詩の中にめざめる日本」読了。
特に心に残ったものを書き留めておきたい。
民衆は詩人である / 真壁仁
真壁仁の編集による「詞の中にめざめる日本」が岩波新書から出版されたのは、1966年(昭和41年)のことである。
序文によると、この本に収められた詩は選ばれた詩人のものではなく、名もなき民衆の中の書き手の作品とされている。
真壁は、詩を書いてそれに署名する大衆は、もはや大衆でも「無名の常民」でもなく民衆であると考えているのだ。
本書に掲載された詩は、戦後労働組合の機関誌やサークルの雑誌、自費出版の詩集から編者が選んだものである。
これは敗戦日本の民主主義へのめざめの記録であり、民衆の体験した戦後史だと、真壁は言う。
民衆。それは主権にめざめた人民大衆である。それは民衆であり階級である。そういう存在としての自己にめざめ、そういう存在として自己を形成しようとするひとつのあらわれとして、これらの詩があった。
便所掃除 / 浜口国雄
かわいた糞はなかなかとれません。
たわしに砂をつけます。
手を突き入れて磨きます。
汚水が顔にかかります。
くちびるにもつきます。
そんなことにかまっていられません。
ゴリゴリ美しくするのが目的です。
その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。
大きな性器も落します。
朝風が壺から風をなぜ上げます。
心も糞になれて来ます。
水を流します。
心に、しみた臭みを流すほど、流します。
雑巾でふきます。
キンカクシのウラまで丁寧にふきます。
社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。
もう一度水をかけます。
雑巾で仕上げをいたします。
クレゾール液をまきます。
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。
静かな、うれしい気持ですわってみます。
朝の光が便器に反射します。
クレゾール液が、糞壺の中から、七色の光で照します。
第五回(1955年)国鉄詩人賞受賞作品。浜口国雄は金沢車掌区で働く国鉄労働者だった。
敗戦まで文学にまったく縁のなかった作者は、国鉄詩人連盟の活動の中で詩作を学んだ。
音 / 森春樹
病が深まり 指は蝕まれ
掌に 鎌を握らせるのに
幾度も 繰り返し 繰り返し
繃帯で やっと結えつけるのである。
指 / 森春樹
いつの日から か
指は
秋の木の葉のように
むぞうさに
おちていく。
せめて
指よ
芽ばえよ。
一本、二本多くてもよい。
少くてもよい。
乳房をまさぐった
彼の日の触感よ。
かえれ
この手に。
作者は長島愛生園にいる癩詩人である。
あめ / 山田今次
あめ あめ あめ あめ
あめはぼくらを ざんざか たたく
ざんざか ざんざか
ざんざか ざかざか
あめは ざんざん ざかざか ざかざか
ほったてごやを ねらって たたく
ぼくらの くらしを びしびし たたく
さびが ぎりぎり はげてる やねを
やすむ ことなく しきりに たたく
ふる ふる ふる ふる
ふる ふる ふる ふる
あめは ざんざん ざかざん ざかざん
ざかざん ざかざん
ざんざん ざかざか
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか
みみにも むねにも しみこむ ほどに
ぼくらの くらしを かこんで たたく
京浜の労働者。本作は新日本文学会の第1回創作コンクール(1947年)当選作品。
その朝 / 髙橋敬子
その朝
貧しい講堂は
学生にあふれ
学生達は泣きながら
肩を組んで誓いあった
貴女の命が燈なのだ、と
その日
街路は市民にあふれ
喉笛を一杯に
人達は叫んだ
奪われた命が証なのだ と
私達の血を呑んで
焼けつく舗道に
今日も人達の列が続く
貴女の血潮を燈にかざし
貴女の命の復活をめざし
前進 / 髙橋敬子
貴女がもう笑えないから
貴女がもう愛せないから
私はこんなに歔欷するのだ
貴女がもう歌えないから
貴女がもう怒れないから
私は涙も干上がるのだ
貴女がもう憎めないから
貴女がもう嗚咽できないから
私はまっすぐ踏みしめるのだ
貴女がもう立上がれないから
貴女がもう歩めないから
私は一歩を踏み出すのだ
樺美智子追悼詩集「足音は絶ゆる時なく」収録作品。
作者は横浜国立大の学生だった。
中川五郎のフォークソングで歌われている。
死の花粉 / 沖田きみ子
炭鉱の人は自殺を知らない
それでなくても死は満ちていた
朝の井戸は女でにぎわい
お別れも充分でないのに
死体が運ばれる
遺族はひととき
炭鉱をのろった
作者は田川炭鉱(山形県)で働いている主婦。
県の労働者文化展入選作品。
私は広島を証言する / 八島藤子
逃げもかくれもいたしません。
一九四五年八月六日
太陽が輝き始めて間もない時間
人らが敬虔に一日に入ろうとしているとき
突然
街は吹きとばされ
人は火ぶくれ
七つの河は死体でうずまった。
「原子雲の下より」(青木文庫・1952年)収録作品。
瞳(いつも目を伏せている検事へ)/ 赤間勝美
おれ達に
きらきら光るひとみがあるかぎり
くらやみが
おれ達をつつむことはできぬ
たとえ おれ達を
絞首台につるすことができても
真実はけっして
目をつむりはしない
検事よ
お前の足もとを見ろ!
みじめで
雨上がりの崖道のようで
そうしてうしろには
何もないじゃないか!
1949年(昭和24年)8月17日未明、東北本線松川駅の近くで、上り旅客列車が脱線転覆し、機関士と助手の3人が亡くなると松川事件が発生した。
作者は松川事件の被告で当時19歳の少年だった。
この事件唯一の証拠と言われた「赤間自白」は、拷問と強制によるものだと言われている。
贋金つくり / 有馬敲
おれは印刷屋 贋金つくり
ニセのお金でパンを買う
背広をあつらえ家賃を払う
誰も知らない贋金つくり
日本銀行の発券係も
タバコ買った釣銭で贋金つかむ
妻や上役へのおくり物買う
作者は銀行に勤める詩人である。
硫黄 / 丹野茂
きょう 鉱山は抗口を閉ざし
おれたちは 鉱塵と ガスのしみこんだ作業着をぬぐ
索道はとまり クラッシャーの音もなく
しのびよる春をよそに 鉱山(やま)は不気味に静かだ
硫黄とともに生きたおれたち
硫黄のために死んだ仲間
おれはいま仲間に 悲痛をこめて さようならをいう
作者は蔵王鉱業で働きながら詩を書いてきた。
蔵王鉱業は1962年の貿易自由化のあおりを食って合理化首切り、そして閉山。
直接的な閉山の理由は、1962年12月25日に発生した原因不明の坑内火災だった。
呼びかけ / 峠三吉
いまでもおそくはない
あなたのほんとうの力をふるい起こすのはおそくはない
あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の傷手から
したたりやまぬ涙をあなたがもつなら
今もその裂目から
どくどくと戦争を呪う血膿をしたたらせる
ひろしまの体臭をあなたがもつなら
作者は1952年に発行された「原爆詩集」(青木文庫)で序文を書いている。
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを へいわをかえせ
雨 / たかはしひろゆき
雨 ふってきた。
雨 ふってきたぞ。
雨 おらたちまっていたんやど、
雨 ふってきた、
雨 おらたち水なくてこまっていたんやど、
雨 おらたちひゃくしょうまっていたんやど、
髙橋広幸は「どんポコ大会」(理論社)の作者で、この詩を書いたのは小学校6年生のとき(1958年)だった。
無人の村 / 押切順三
山狩りは終った。
その一人の捕虜は
手足をしばられ一本棒につるされてはこばれた。
富士の巻狩りの絵にある
あのいのししみたいにだ。
部落の兵卒たちは棒をかついで山をおりた。
うす目をあけておれたちを見ている、と
部落の兵卒はしきりに棒かつぎを交代した。
親方衆は威勢よく刀をならしては
狸汁だ、狸汁だ、とわめいた。
部落から県道に出て
彼はトラックに積まれリンチ場にはこばれた。
太平洋戦争中、秋田県蛯沢の花岡鉱山に993人の中国人捕虜が送り込まれていたが、栄養失調と過労で死者が相次ぐ中、敗戦直前の6月30日に集団脱走をした。
3日後に捕虜は全員逮捕され、416名が虐殺された。
谷に埋められた死体は戦後占領軍の指示で掘り返され火葬された。
1965年、捕虜収容所跡に「日中不再戦友好碑」が建てられている。
車勇助 / 土田茂範
勇助
おまえは、八時四十七分の汽車で
日本を去っていった
北朝鮮の旗をもち
涙をながしてさっていった
おまえは、きのう
書きとりテストをうけ百点とった
おまえのはじめの点数は
たったの四十点
それが、日本で最後の勉強で百点とった
作者は山形県醍醐小学校の教師である。
クラスでは勇ちゃんを送る会が企画され、クラスではこけし人形を贈った。
胸のそこの河原で / 中村正子
わたしの片肺は
もうビフテキのようにさらされて
四角い水槽のホルマリンの中に
至極あっさりと浮いている
だが あの時この肺と一しょに
たしかに流れ出ていった何かがあった
作者は滋賀県信楽町にある国立療養所紫香楽園の「いしころ詩の会」で詩を書いてきた。
本作は全国結核療養者詩集「川を海に」収録作品。
潜水艦とハンチング / 桑村宏
重症患者の武器だったお前ら
潜水艦とハンチングに
木枯らしが吹き込み
落葉が降り込んでいる。
付添婦は制限。日本は再軍備。
臭気のただよう便所に
付添婦のつかない重症患者が
歩いて行かねばならない。
本作は1952年度(昭和27年度)「日本ヒューマニズム詩集」収録作品。
もとは日本患者同盟の機関誌「日患情報」に掲載されたものだった。
患者達は便器をハンチング、尿気を潜水艦と呼んでいる。
戦死せる教え児よ / 竹本源治
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ!
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
作者は高知県の教師。
本作は高知教組の機関誌「るねさんす」(1952年)に掲載され、多くの方面で転載された。
この作品が書かれた1951年(昭和26年)、日教組中央委員会は初めて「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げている。
最後に / 樺美智子
誰かが私を笑っている
こっちでも向うでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れず ほほえみたいものだ
安保闘争のさなかに樺美智子が死んだのは1960年6月15日、22歳のときだった。
本作は神戸高校卒業の頃に書かれたものと思われる。
伝説 / 厚木叡
ふかぶかと繁った森の奥に
いつの日からか不思議な村があった
見知らぬ棘をその身に宿す人々が棲んでいた
その顔は醜くく その心は優しかった
棘からは薔薇がさき その薔薇は死の匂いがした
人々は土を耕し 家を葺き 麵麺を焼いた
琴を鳴らし 宴に招き 愛し合った
こそ泥くらいはありもしたが
殺人も 姦通も 売笑もなかった
女たちの乳房は小さく ふくらまする子はいなかった
作者は多摩全生園に入所するライ詩人である。
本作は大江満雄が編んだ、日本ライ・ニュー・エイジ詩集「いのちの芽」(三一書房)に収録された。
原爆体験記 / 岡本俊夫
原爆おわってから
どんな苦労をしたかわからない
みんなたべものがないので
てつどうぐさのだんごをたべたり
さまざまなかっこうでいた
広島じゅうははしからはしまで
やけのはらであった
いなかにかえって
あらせというびょういんにかよった
病院にいっていると
おいしゃさんがどこの人かしらないが
せなかのかわを五、六枚はぐってみると
うじがなんぜんびきとはいっていた
今思い出してもぞっとするあのおそろしい原爆
もうあんなことはしないで
平和にくらしていこう
作者は広島市竹屋小学校6年生だった。
「原子雲の下より」収録作品。
みんな同じ人間なのだ / 丸橋美智子
私達はなにもすきこのんで
部落に生まれてきたのではない
私たちのどこが悪いんだ
みんな同じ人間なのだ
目も二つある
耳も二つある
はなも口もちゃんとある
どこ一つとしてほかの人とちがう所がないのに
なぜエッタや部落民やといってきらわれるんだ
日本は世界で一ばんりっぱな国だ
日本は民主主義の国だと言われるだろう
そんなよい世の中になればなるほど
私達がさわがれなくなるのだ
そんな日が早く来るように努力したいもんだ
早く来させたいもんだ
作者は奈良県桜井市立香山中学校1年生(1963年当時)。
奈良県同和教育研究会編集の作文集「みんな同じ人間なのだ」(1965年)に収録された。
チューインガム一つ / 村井安子
せんせい おこらんとって
せんせい おこらんとってね
わたし ものすごくわるいことした
わたし おみせやさんの
チューインガムとってん
一年生の子とふたりで
チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた
きっと かみさんが
おばさんにしらせたんや
わたし ものもいわれへん
からがが おもちゃみたいに
カタカタふるえるねん
わたしが一年生の子に
「とり」いうてん
一年生の子が
「あんたもとり」いうたけど
わたしはみつかったらいややから
いやいやいうた
一年生の子がとった
でも わたしがわるい
その子の百ばいも千ばいもわるい
わるい
わるい
わるい
わたしがわるい
おかあちゃんに
みつからへんとおもとったのに
やっぱり すぐ みつかった
あんなこわいおかちゃんのかお
見たことない
あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない
しぬくらいたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」
おかあちゃんはなきながら
そないいいうねん
わたし ひとりで出ていってん
いつでもいくこうえんにいったら
よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい
どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても
どこへもいくとこあらへん
なんぼ かんがえても
あしばっかりふるえて
なんにも かんがえられへん
おそうに うちへかえって
さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん
けど おかあちゃんは
わたしのかおを見て ないてばかりいる
わたしはどうして
あんなわるいことしてんやろ
もう二日もたっているのに
おかあちゃんは
まだ さみしそうにないている
せんせい どないしよう
作者は神戸市立東灘小学校3年生。
灰谷健次郎という教師の「せんせいけらいになれ」(理論社・1956年)で紹介された。
灰谷は敗戦後の食糧難の時代に畑からトウモロコシを盗んだ体験談を聞かせて、少女に詩の書き直しをさせたという。
岡林信康の代表作として、あまりにも有名。
自由について / 薩川益明
炸裂する黄リンはたしかに熱い
糜爛した皮膚の下を苦しく流れる鮮血よりも
銃弾はたしかに硬い
黒い髪の毛の垂れかかる額よりも
毒ガスは侵蝕する
いのちに潤った粘膜の深部を
とても陰性に
おまえ
ベトナム
ナフサやガソリンで炎上している歴史の面わ
火傷の痛みに耐えている
ぼくの自由よ
作者は札幌で活躍している若手の詩人。
「詩の村」という雑誌を出しており、本作は1965年9月号ベトナム特集に掲載された。
中川五郎がメロディをつけて歌っている。
おわりに
「詩の中にめざめる日本」では多くの作品が掲載されているが、今回はその中から24作品を紹介している。
各作品は任意の個所・フレーズを抜粋しているので、原作に忠実ではないことを記しておく。