私の見た「昭和二十年」の記録である。当時私は満二十三歳の医学生であって、最も「死にどき」の年代にありながら戦争にさえ参加しなかった。「戦中派不戦日記」と題したのはそのためだ。ただし「戦中派」といっても、むろん私一人のことである。(「まえがき」より)
書名:新装版 戦中派不戦日記
著者:山田風太郎
発行:2002/12/15
出版社:講談社文庫
作品紹介
『戦中派不戦日記』は、当時東京医科大の医学生だった山田風太郎が綴った昭和20年の日記です。
一介の大学生の日記ということで、もちろん公表を前提として書かれていたわけでもないため、敗戦当時の若者の率直な気持ちが綴られていると言えるでしょう。
昭和20年1月1日にはじまり、12月31日に終わる。
そのシンプルな日記の中に、激動の日本を生きた庶民の記録が残されているのです。
1985年に刊行された『戦中派不戦日記』(講談社文庫)を文字を大きくし、新しく組み直した新装版。
なれそめ
時代小説を読まない僕には、山田風太郎という作家は決して身近な作家ではありません。
ただ、古本屋の棚で見つけた「戦中派不戦日記」という題名に体が反応しただけです。
僕はどういうわけか、戦争中から戦後直後にかけての日記文学が好きみたいで、これまでに何冊かの「戦争日記」を読んできました。
そんなこともあって、タイトルには自然に反応することができたのでしょう。
もっとも「不戦日記」という言葉には、何やら意味ありげなものを感じます。
当時、多くの日本国民は何らかの形で太平洋戦争に参加していたわけで、東京で暮らしているから、あるいは普通の大学生だから戦争には参加していなかったというわけではありません。
同世代の若者たちが実際に戦場へ旅立ち、壮絶な戦闘体験をしてきたことを考えると、「不戦」という言葉を使いたくなる気持ちも理解できるような気はしますが…
なにはともあれ、僕にとって初めての山田風太郎作品です(おそらく)。
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、僕の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
いや、殺さねばならない。一人でも多く
さらばわれわれもまたアメリカ人を幾十万人殺戮しようと、もとより当然以上である。いや、殺さねばならない。一人でも多く。われわれは冷静になろう。冷血動物のようになって、眼には眼、歯には歯を以てしよう。この血と涙を凍りつかせて、きゃつらを一人でも多く殺す研究をしよう。(『三月十日(土)晴』より)
戦争日記を読むときのポイントには、東京大空襲や原爆投下、天皇陛下の玉音放送など、庶民が対面したエポックメイキングな出来事に注目するということがあります。
そして、上記の引用文は、まさしく3月10日未明に行われた東京大空襲の被害を、実際に現地で目撃した著者が記した言葉です。
実はここに至るまで、どちらかというと著者の文章には、戦争なんてどこか他人事みたいな、第三者的視点が強く感じられていました。
しかし、前夜の空襲被害を目の当たりにした著者は、一夜にして廃墟と化した街を歩きながら「こうまでしたか、奴ら!」と怒りに震えます。
この時点では、まだ、著者本人は直接的な罹災者ではなかったのですが、「罹災民200万人、死者15万人」という被害速報に、これまでにない激情を日記にぶつけているのです。
まさにジャンヌダルクを思わせる壮絶無比の姿である
気がつくと、自分と並んでポンプの柄にとりついているのは十七、八の少女であった。火光に映える円い顔は、燃える薔薇のようだった。頭巾の下からはみ出した髪はふり乱され、ふりむいては銀鈴のような声で、「水、水をお願い―」と叫ぶ。まさにジャンヌダルクを思わせる壮絶無比の姿である。(『五月二十五日』より)
5月24日から6月4日までの12日間分の日記を、著者は6月5日にまとめて綴っています。
5月24日未明、著者の住む街が、とうとう空襲被害を受けて、著者も住居を焼け出されてしまったからです。
まるで夕立のような音を響かせて降り続く焼夷弾の嵐に「ザザッ―という音がして、頭上からまた焼夷弾が撒かれていって、広い街路は見はるかす果まで無数の大蝋燭をともしたような光の帯となった。自分達はこの火の花を踏んで走った」とあります。
戦争日記の中でも、空襲罹災者となった体験談は、東京にいて戦争に参加した人たちの、特に生々しい記録だと言えるでしょう。
くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている
明るい。くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている。負けたのか! 信じられない。この静かな夏の日の日本が、今の瞬間から、恥辱に満ちた敗戦国になったとは!(『八月十六日(木)晴・夜大雨一過』より)
ポツダム宣言受託を国民に伝える天皇陛下の玉音放送が伝えられたのは、前日の8月15日ですが、この日の日記には「帝国ツイニ敵に屈ス。」の一行しかありません。
そして、翌16日の日記で、著者は敗戦に対する長い文章を綴っています。
実は、8月14日までの日記の中で、著者は終戦が近付きつつあることを悟りながら「全面降伏」という選択肢が日本にあるとは考えていなかったようです。
「玉砕」はあっても「降伏はない」。
そう信じていた著者にとって、敗戦は「過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった」ほどの絶望感を与えていたのです。
本書のタイトルには『不戦日記』とありますが、東京で医学を学びつつ、やはり著者も一人の23歳の若者として、特攻隊員として死んでいった多くの若者たちと同じように、アメリカ軍と戦っていたのではないでしょうか。
読書感想こらむ
戦争日記を読んで爽やかな気持ちになることは絶対にありません。
戦後に生まれた人間の一人として、戦争の持つ現実というものを、愚直に学ぶしかない。
安易に非戦論とか反戦論に肩するつもりはないけれど、あのとき、日本で何が起きていたのかということを、僕たちはもっときちんと学ぶべきだと思います。
学校は戦争の歴史を教えることはできるけれど、一人ひとりの国民の生きた証しを伝えることは、きっとできないでしょう。
あのとき、日本で何が起きていたのか。
そういうことを戦争中に書かれた日記は教えてくれます。
本書「まえがき」の中で、著者は「戦記や外交記録などに較べれば、一般民衆側の記録は、あるようで意外に少ない」「さらにその戦記や外交記録にしても、その記録者がその出来事に直接参加していなかったり、また参加しているにもかかわらず、記録者自身の言動、そのなまの耳目にふれた周囲の雰囲気を活写したものが稀である」と述べています。
戦後、様々な戦争体験が語り継がれていますが、記憶はどうあっても個人的に美化され、道義的に修正され、そしていつかは忘れられてしまうという宿命を負っています。
語り継がれる戦争体験とは異なる戦争体験が、日記の中には残されているのではないでしょうか。
戦争日記は、新しいものが出版される可能性は、ほとんど稀になっていくと思われます。
あのとき、日本で何が起きていたのか。
ぜひ、自分の目で読んでみていただきたいと思うのです。
まとめ
23歳の医学生だった山田風太郎が綴った昭和20年の日記。
戦地に赴くことなく、日本国内でアメリカ軍と戦った一般庶民の戦記でもある。
著者紹介
山田風太郎(作家)
1922年(大正11年)、兵庫県生まれ。
代表作に「忍法超シリーズ」がある。
「戦中派不戦日記」発行時は63歳だった。