庄野潤三の世界

庄野潤三『野鴨(十)』ピアノの上と「さて、早いもので」という言葉

庄野潤三『野鴨』の<二十八>から<三十>まで。

計十回の連載も今回が最終回である。

長い作品全体を読み終えたとき、伝わるものがあるのではないだろうか。

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いつから始まったのか、はっきりした覚えは無いのだが、何かお供えをするというと、ピアノの上に載せる。

『野鴨』の<二十八>は、良二が不要になった樋を棄てに行ったときの話がベースになっている。

「立秋の二日前であった」とあるから、8月上旬の、まさしく真夏の季節である。

古い樋を棄てるため、和子の住んでいる黍坂まで、良二は三回も自転車で往復した。

田圃を埋め立てて住宅地にしているところがあるので、粗大ごみなんかも、みんな田圃の中へ棄てているらしい。

うしろの田圃を埋立てた時なんか、コーキちゃんのお母さんは、どうせ土の下になるんだからといって、コーキちゃんが赤ん坊の時に寝かせていた寝台まで捨てた。もっとも、そのあと間もなく、二番目の赤ん坊が生まれることが分って、失敗したといっていた。それくらいだから、樋なんか何でもないというのであった。(庄野潤三「野鴨<二十八>」)

このあたりは、時代を感じさせるエピソードである。

樋を棄てに行く途中で大沢君に会ったとき、大沢君はポケットの中の蜥蜴を見せてくれた。

<二十九>は、黍坂から和子が、満一歳になった子供をおぶって、赤飯を届けに来た午後のことから始まる。

「あの晩は、みんな揃っていた。それで一緒に乾盃ができた」

ちょうど、良二が山中湖へ合宿へ出かける前の日だったので、冷蔵庫にあった飲みかけの白葡萄酒で乾盃をした。

井村たちは、良二の終業式があった日の夜行で広島の親戚の家へ行き、二日間、瀬戸内の島で釣りを海水浴をした(前の年は、ちょうど和子の出産と重なったので、広島行きは見合せた)。留守中、郵便物を取り込むのと、和子が中学一年の時から飼っているセキセイインコの水と餌をかえるのに、子供をおぶって黍坂から通ってくれた。(庄野潤三「野鴨<二十九>」)

旅行から帰った翌日、井村の妻は、広島で買ったいりこ、土産にもらった蒲鉾と乾した海老に、自家製の練り味噌を添えて、和子のところへ持っていく。

和子が赤飯を持ってきたのは、その四日後のことであった。

ピアノの上に木の折箱が載せてあるのが目にとまったが、何だろうと考えずに、前を通り過ぎた。いつから始まったのか、はっきりした覚えは無いのだが、何かお供えをするというと、ピアノの上に載せる。神棚も仏壇も無いこの家で、ひとりでにそんな習慣が出来上ってから、もう十年以上になるだろう。(庄野潤三「野鴨<二十九>」)

「お誕生日だな」と井村が言うと、和子は「はい、お陰様でこんなに大きくなりました」と言った。

「さて、早いもので」庭を眺めたままで、もう一度、呟いてみる。

最後の<三十>は、樋を取換えに来た板金屋の息子と亡くなった中風の親父さんの話である。

長篇小説の最終回だという緊張感はまるでない。

板金屋の息子の言った「早いものだね」という言葉から、井村は、義姉と兄の二人の名前で出された法事の案内の葉書に書いてあった「さて、早いもので」という言葉を思い出す。

それは、父の二十三回忌、母の十七回忌、長兄の二十五回忌を一緒にしたもので、四月の中ごろにあった。

学年末の忙しい時期だし、父と長兄の命日はどちらも秋だから、最初は秋にしてはどうかという話もあったが、義姉のところでは、十月ころに下の姪の結婚式をすることになりそうだということで、母の命日に合わせて四月になった。

「さて、早いもので」庭を眺めたままで、もう一度、呟いてみる。どうしてこのひとことがいいのか。或いは型通りであるかも知れないこの言葉が、井村の胸にしみじみと納まるのはなぜだろう。小さい葉が一枚、宙を斜めに流れるようにして山もみじの下へ落ちる。まだらにこぼれた日の、まるい輪に入って、金色に光った。(庄野潤三「野鴨<三十>」)

四月の法事の話が、物語の一番最後に出てくる。

これは、おそらく小説としての構成上、「さて早いもので」という言葉を締めくくりに使うことを、庄野さんは早い段階から考えていたということだろう。

姪の結婚式の話から始まった小説が、両親や長兄の法事の話で終わっているところも、秋から始まった物語が秋で終わっているところも、作品の構成として安定感がある。

派手なラストシーンではないが、「さて早いもので」という言葉が、この作品の性格を端的に物語っている。

流れるように過ぎていく日常の中のささやかな物事。

ひとつひとつは小さなことかもしれないけれど、人生の営みというのは、そういう小さなことの積み重ねである。

作品全部を読み終えたとき、そんなことが思い浮かんだ。

書名:野鴨
著者:庄野潤三
発行:1973/1/16
出版社:講談社

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。