庄野潤三『野鴨』の<二十五>から<二十七>まで。
自然薯の貯蔵庫の上に自分たちは暮しているんだという、大らかな気持を味わいたい
『野鴨』の<二十五>は、「どの葉にも雫がたまるわけではないのか」という、井村の言葉から始まる。
庭の草花に雨が降っている様子を観察しているのだが、『野鴨』では、このように井村の言葉から入る手法が多く見られていることが特徴だろう。
雨の少ない梅雨の話が、強い風の吹いた日の話となり、庭に植えた自然薯の話になる。
それから毎年、こうして蔓が出、葉が茂る。だが、土の中の自然薯はなかなか大きくならないものだから、掘らないで、そのままにしている。「蔓のあるところ、自然薯あり」そう思えばいい。つまり、自然薯の貯蔵庫の上に自分たちは暮しているんだという、大らかな気持を味わいたい。(庄野潤三「野鴨<二十五>」)
「自然薯の貯蔵庫の上に自分たちは暮しているんだという、大らかな気持を味わいたい」というところが、いかにも庄野さんらしい。
それから話は、良二がロウバ池でやぶ蚊に刺されたときのことへと展開していく。
<二十六>は、和子の隣の奥さんが子どもを産んだところから始まっている。
三軒並んだ借家のうち、子どもの数が、八百屋さんの家も二人、コーキちゃんのお母さんも二人になった。
「順番にそうなって行く」という文章がいい。
和子の子どもは眠くなると、自分で廊下へ這って行って、俯伏せになったまま寝てしまうという。
そんな話をした後で、井村は、小学四年生の和子の日記のことを思い出す。
今日はお父さんがこんな話をしてくれました。お母さんが、お使いに行って、お父さんがひとりだけの時のことです。赤ちゃんがねむくなって、目をこすり出したので、お父さんが、「ねんね」というと、くずれ落ちるようにふとんに顔をふせました。そして、お父さんが新聞をよみはじめると、ふとんからはい出して来ます。また、「ねんね」というと、くずれ落ちるように顔をふせました。そういうことが三回くりかえされて、やっとねたそうです。私はその話を聞くと、おなかのいたくなるまで笑いました。(庄野潤三「野鴨<二十六>」)
『野鴨』では、小学生のときの和子の作文が、重要な素材のひとつとなっている。
亡くなった父や長兄の思い出から、幼い子どもたちへと続く縦糸が、この長篇小説の大きなテーマのひとつとなっているからだろう。
和子の暮らす黍坂の人々や実家のある大阪、ロンドンに滞在している井村の友人などは横糸となって、この作品を支えている。
君の手紙を読んで何だかなつかしい気がしたから妙なものです
<二十七>は、ロンドンにいる井村の友人から届いた手紙の話。
君のお便りにお父さんがスイス・コテッジに住んでおられたとあったが、これもすぐ近くで、歩いて三十分ほどのところです。キイツの家に行った帰り、ビールを飲んだのがスイス・コテッジです。いまは大きな通りがあって賑やかですが、少し入ると閑静な綺麗な住宅地です。君の手紙を読んで何だかなつかしい気がしたから妙なものです。(庄野潤三「野鴨<二十七>」)
ここでも、また、亡くなった父という縦糸と、ロンドンの友人からの手紙という横糸が、美しい形で絡まって、読者を遠い妄想の世界へと運んでくれる。
庄野さんは、こういう仕掛けが本当に上手な作家だと思う。
まるで日記や随筆のように自然体で綴られているのに、膨らみがすごい。
物語を自分の中で膨らませる楽しみが、庄野さんの作品にはある。
逆にいうと、自分で物語を膨らませる力がなければ、庄野さんの作品を読んでも物足りないということが起こり得るのだろう。
書名:野鴨
著者:庄野潤三
発行:1973/1/16
出版社:講談社