庄野潤三『野鴨』の<十九>から<二十一>まで。
『野鴨』を読んでいると、気持ちがリラックスしてくるから不思議だ。
純文学の堅苦しさが、そこにはまるでない。
小さな、二間きりのところで親子三人が暮している家には趣があるという気持になる
『野鴨』の<十九>は、庭のテッセンの話。
野鳥や庭木、草花など、庄野さんの作品では、自宅の庭が重要な舞台になっていることが多い。
自宅内における家族の言動が小説になるように、庭の鳥や花も小説になる。
ただし、それは、花が美しいとか、鳥がかわいいとか、そういった感情的な描き方とは違っている。
例えば、テッセンの蕾がひらいたときの様子を、井村は次のように語っている。
つまり、鉄棒で「足かけ上り」をしたような具合に、頭を持ち上げた。持ち上げることは持ち上げたが、蕾の先はとっくに地面に着いていたから、せっかくひらいたのに、土の上に花びらを載せたような恰好になった。「なんだ、こんなところに」もう少し早く気が附いていれば、蔓ごと引張り上げてやるのであった。(庄野潤三「野鴨<十九>」)
テッセンの蕾が「鉄棒で「足かけ上り」をしたような具合に」と擬人化されているところがいい。
さらに、井村は、秋の終わりに枯れてしまったテッセンが、葉はすがれて、みんな落ち、茶色になった蔓だけ、篠竹のまわりに残っている様子を見て「ハムレットの亡霊のようだ」という。
庭の小さな花を眺めているだけなのに、考えていることがいちいちおかしいのである。
次に<二十>は、黍坂の和子のところの子どもの話である。
和子が実家に立ち寄ったとき、頂き物の伸し餅をお裾分けで上げた。
ところが、後になってから、小さな子どもに餅を食べさせたりしたら大変なことになると気づき、井村夫人は注意の葉書を書く。
しかし、葉書では当日中に間に合わないかもしれないので、結局、井村夫人はバスに乗って葉書を持参した。
葉書には「一筆啓上、火の用心。子供にお餅食べさすな」と書かれていた。
葉書を持参するところも、文面も楽しい。
『サザエさん』の世界がここにもある。
和子の家で話をしていると、隣の部屋で遊んでいた子どもが、歩行器に乗って滑るように現れた。
そして、また、歩行器に乗ったまま隣の部屋へ滑っていった。
それは、いかにも「退場していく」といった趣の様子だった。
井村は、黍坂から帰った妻が報告したことは、そっくり覚えている。中でも、隣りの部屋から歩行器ごと滑り出て来た子供が、ふたたび退場して行ったというところが気に入った。そのうしろ姿が何だか面白かったと妻がいうのも、分らないではない。そうして、向うへ消えてしまってから、何の物音もしなかったと聞くと、小さな、二間きりのところで親子三人が暮している家には趣があるという気持になる。(庄野潤三「野鴨<二十>」)
この後、井村家の明夫と良二が、食事中に卵のことで争う話へと展開するが、明夫と良二は、よくよく卵のことでおかしな騒動を起こす。
「おい。乳歯一本、くれ。早くくれ」という。無理難題を吹きかける。
<二十一>は、庭で雀が鳴いている話から、三種混合の注射を受けた和子の子どもが泣かなかったという話へとつながっている。
この前までは、上下二本、前歯が生えていた。それがいつの間にか、四本ずつになっている。歯が生えて来るというのは、本人にしてみると、そこいらがむずむずするのだろうか。無暗やたらに唾をふきかける、黍坂からおぶって道を歩いて来る間に、和子はブラウスの肩のあたりが冷たくなるといっている。
井村は、そろそろ十ヵ月になる子供を前にして、「おい。乳歯一本、くれ。早くくれ」という。無理難題を吹きかける。すると、子供の母親は、「寸法が合うかしら」そういって口の中を覗き込むのであった。(庄野潤三「野鴨<二十一>」)
最後の「寸法が合うかしら」という台詞がいい。
これは<二十一>の最後の部分なので、オチがついた格好になっている。
庄野さんの小説で、こんなふうにオチがつくのは珍しいのではないだろうか。
書名:野鴨
著者:庄野潤三
発行:1973/1/16
出版社:講談社