庄野潤三『野鴨』の<十>から<十二>まで。
『野鴨』は<井村>を主人公とする三人称の小説だが、<井村>はそのまま作者自身であり、井村一家の日常はそのまま庄野一家の日常である。
随筆のような親しみやすさが、そこにはある。
こういう時に、半分髭を剃りかけたままで、航海士が飛んで来るのだろうか。
『野鴨』の<十>は、春の雪解けについての話。
桶からこぼれた雪解の雫が水溜まりに落ちていく様子を、井村は机の前に座ったままで楽しそうに観察している。
それにしても、この波はどうだ。えらい勢いではないか。もしも船に乗っていて、この上にいたら、途方に暮れるだろう。「木の葉のごとくに」という言葉が浮ぶ。こういう時に、半分髭を剃りかけたままで、航海士が飛んで来るのだろうか。(庄野潤三「野鴨<十>」)
航海士というのは、井村の本棚にある英米編の名言集に載っている話のことで、慌てた航海士が「船が沈みかかっています」と、船長に報告する。
すると船長は「船ってものは、進水した時から、沈みかかっていたと思っていいんだよ」と答える、というエピソードだ。
この名言集というのが、庄野さんも敬愛する福原麟太郎が編集した『永遠に生きる言葉』である。
さらに井村は、英語の歳時記の「春」の巻のはじめの方に出ていた「あふれる溝」という言葉を思い出す。
この<英語の歳時記>というのも、同じく福原さんが編集に携わった『英語歳時記』で、福原麟太郎に対する庄野さんの傾倒ぶりが、よく伝わってくる。
この後、話は、井村の書斎の絨毯の話になり、和子が買ってくれた羊の毛皮の敷物の話になり、燃料屋の一家がスキーへ行かなかった話へと展開していく。
どのエピソードも、庄野さんの他の作品との関わりが見つかって楽しい。
明夫と良二の部屋に、天体望遠鏡が置いてある。
次の<十一>は、夕食の途中で皆既月食を見るために外へ出た良二と妻が、明夫に締め出されてしまう話である。
これなどは「戸外の祈り」や「卵」など、明夫と良二シリーズの短篇に加えることができそうな作品だ。
明夫と良二の部屋に、天体望遠鏡が置いてある。この丘の上へ引越して来てから二年目のクリスマスに、貯めてあったお金で妻が買って来た。三人の子供に共通の贈り物として上げた。和子が中学、明夫と良二が小学生の時分だから、天体望遠鏡といっても高価なものではない。(庄野潤三「野鴨<十一>」)
明夫に締め出されても、良二は文句を言うでもなく、平気な顔をしている。
この後、話は庭にやってくる<とらつぐみ>の話へと移っていくが、<とらつぐみ>は<ひよどり>に襲われても「争いごとは好まないので」というように、庭の隅へ逃れる。
良二の生き方は、井村にとって<とらつぐみ>式の生き方に見えたのだろうか。
続いて<十二>は、英国の船が横浜の港へと入ったところから始まる。
話はすぐに、誕生日に買ってもらった良二の足袋のことへと移り、さらに、良二が話してくれた昔話に出てくる<すっぽん>の話へと変わる。
「あれはいつだったか」夕食の途中で、良二が池のすっぽんのことを話し出したことがある。「冬休みになる前だろう。もう二月くらいになるか」どういうふうにいい出したのか。主というのはやっぱりいるんだねといったのだろうか。(庄野潤三「野鴨<十一>」)
池で捕まえた<すっぽん>を町まで売りにいくため、池の堤を歩いていると、池の中から「おい、どこへ行くぞ」と声がする。
すると、背中の籠の中にいるすっぽんが「今日は大垣へ行くわい」と答える。
さらに、池の中から「いつ帰るぞ」と声がして、籠のすっぽんは「明日はじきに帰るわい」と答えたという話である。
作品の中に、昔話を織り込む手法は、「さまよい歩く二人」や「星空と三人の兄弟」など、この時期の庄野文学では積極的に用いられているものだった。
書名:野鴨
著者:庄野潤三
発行:1973/1/16
出版社:講談社