庄野潤三『野鴨』の<四>から<六>までを読んでみる。
庄野さんの長編小説では、よくあることだが、『野鴨』は全部で30の章から構成されている。
それぞれの章に、ストーリー上の直接的な繋がりはない。
もし父が生きていれば、「せんよりゃあ、まし」というに決まっている。
<四>では、庭の山もみじの話から、福岡で大学の先生をしている旧友の話になり、さらに、大学対抗ラグビーを見に行ったときの話へとつながっていく。
井村たちは、小さな二人の子供と一緒に大阪から引越して来た(それが秋であった)最初の年から、このラグビー場へ試合をみに来た。小学一年生の和子が、家族でラグビーの試合をみに行った日のことを絵日記に書いたのが、いまでも押入れのどこかに、ほかの作文と一緒に残っている。(庄野潤三「野鴨<四>」)
ラグビーの話は、家族の思い出話へとつながっていき、まだ幼い明夫が、ラグビー場で迷子になった話なども出てくる。
子どもたちの話の合間に、井村の母親が登場して「親が聞いたら、何をぼんやりしているのかといって、叱るに決まっている。まだそのころは、井村の母は元気で、東京へ引越した彼等のことを案じる手紙をいつも寄越していた」などと綴られている。
最後に話は、旧友から届いた手紙へと戻って終わる。
全体を包み込んでいるのは、秋の黄葉の美しさである。
次の<五>は、まだ大阪で暮らしている頃に、家族でてっちりを食べに行ったエピソード。
和子の誕生日に、隣の家族や母親と一緒に、みんなでてっちりを食べた。
庄野さんの作品にたびたび登場する<残念雑炊>は、この店で食べた雑炊が始まりだったらしい。
井村は「親孝行したのは、あの時、一回きりか」と、てっちりを食べる母親の姿を思い出している。
「危ないところだった。よくまあ、ああいう思いつきがひょっと出たものだ。おれとしては、あれは上出来の方であった。母だけじゃない。義姉にも、二人の小さな姪にも…全く何もしなかったんだから、このおれは」つまり、先に亡くなった父や長兄の手前、いくらかほっとする。それで大きな顔をしようとは思わない。もし父が生きていれば、「せんよりゃあ、まし」というに決まっている。(庄野潤三「野鴨<五>」)
最後に「もし父が生きていれば、「せんよりゃあ、まし」というに決まっている」というところ、死んだ父親が登場しているところがいい。
この<五>は、いかにも、庄野さんの家族小説らしい話なので、『野鴨』の中でも、とりわけ、僕自身のお気に入りとなっている。
物を書いて暮しを立てるということが、どんなに容易でないか、少しずつ分りかけて来た時分であった。
次に<六>は、黍坂に住んでいる和子の、隣の奥さんの話になる。
ここまで、庄野一族の話が続いていたが、ここで初めて、<ご近所さん>が登場する。
物語が、さらに膨らんだように感じる場面だ。
家族の隣の奥さんは、<かまきり>のことを<かまきりす>というのだと思っていた。
以来、和子は、かみきりを見つけると「かまきりすがいますよ」と、知らせてあげている。
和子の話を聞いて、井村は「アマリリス、みたいで、ちょっといいなあ」と思う。
かまきりとアマリリス。語呂合せのつもりではないが、この組合せは何だか面白い。滑稽と優美と素朴とがまざり合っている。そうして、哀れもある。(庄野潤三「野鴨<六>」)
さらに、話は、夕方になると泣きだすという、和子の赤ちゃんの話になる。
どうして夕方になると、あんなに泣くのか分からないと和子が言うと、井村の妻は、夕方というのは、何となく物悲しくなってくるのかもしれない、と言った。
そこから、井村が昔の流行歌を思い出して、日暮になると涙が出るのよ、知らず知らずに泣けてくるのよ、ねえ、ねえ、愛して頂戴な、と歌い始める。
佐藤千夜子(チャコ)の「愛して頂戴」である(昭和五年)。
そこから、和子が小学三年生の頃に書いた作文の話になって、当時、まだ赤ん坊だった良二の面倒を見ていたときのことが綴られている。
「物を書いて暮しを立てるということが、どんなに容易でないか、少しずつ分りかけて来た時分であった」と、井村は当時を回想している。
書名:野鴨
著者:庄野潤三
発行:1973/1/16
出版社:講談社