村上春樹さんのエッセイ集「ランゲルハンス島の午後」を読みました。
ちゃんとした読書の合間の息抜きにぴったりで、気分転換にもお勧めですよ。
書名:ランゲルハンス島の午後
著者:村上春樹
発行:1990/10/25
出版社:新潮文庫
作品紹介
「ランゲルハンス島の午後」は、村上春樹さんのエッセイ集です。
イラストを描く安西水丸さんとの共著。
村上さんの「安西水丸性―まえがきによると」には「ここに収められた絵と文章は安西水丸さんと僕が『クラッシィ』という雑誌に二年間にわたって掲載したものです」とあります。
水丸さんの「あとがき」にも「この本は、1984年6月、つまり『CLASSY』の創刊から二年の間、『村上朝日堂画報』というタイトルで村上春樹さんと二人で掲載したページをまとめたものです」「本のタイトルは、『村上朝日堂画報』から、村上さんが、この本のためにに書き下ろした『ランゲルハンス島の午後』にかわりました」と書かれています。
単行本は、1986年11月に光文社から刊行されています。
まるで心がゆるんで溶けてしまいそうなくらい気持のよい、1961年の春の日の午後、川岸の芝生に寝ころんで空を眺めていた。川の底の柔らかな砂地を撫でるように流れていく水音をききながら、僕はそっと手をのばして、あの神秘的なランゲルハンス島の岸辺にふれた―。夢あふれるカラフルなイラストと、その隣に気持よさそうに寄り添うハートウォーミングなエッセイでつづる25編。 (カバー文)
あらすじ
他の「村上朝日堂」シリーズのエッセイ集と同様に、「ランゲルハンス島の午後」にも村上春樹さんによる取りとめのないエッセイが収録されています。
村上さんのまえがきにも「実際の話、僕は誰かに手紙を書くみたいに、ここに収められた文章を書いた」「頭にふと浮かんだことを浮かんだままにすらすらと書き、それをそのまま封筒に入れて水丸さんのところに送って、絵をつけてもらった」と書かれています。
目次///安西水丸性―まえがきにかえて///レストランの読書/ブラームスとフランス料理/シェービング・クリームの話/夏の闇/女子高校生の遅刻について/財布の中の写真/みんなで地図を描こう/ONE STEP DOWN/洗面所の中の悪夢/時計はいかにして増加するか/トレーナー・シャツ雑感/CASH AND CARRY/UFOについての省察/猫の謎/哲学としてのオン・ザ・ロック/デパートの四季/BUSY OFFICE/ニュースと時報/小確幸/葡萄/八月のクリスマス/ウォークマンのためのレクイエム/「核の冬」的映画館/地下鉄銀座線における大猿の呪い/ランゲルハンス島の午後///あとがき
なれそめ
最近は、福原麟太郎随想全集とか小山清とか、ちょっと固い(そしてちょっと古い)本ばかり読んでいたので、少し頭が疲れていました。
ちゃんとした本っていうのは、すごくおもしろい代わりに、しっかりと読み込む分、頭が疲れるんですね、きっと。
何か息抜きをしたいなあと考えた時に、ふと、頭に浮かんだのが、ファッション雑誌なんかに掲載されているようなエッセイ。
それも、1980年代に書かれたものなら、大抵の場合、どうでもいいようなエッセイが多くて、雑誌を読み捨てるみたいに気分転換になるはず。
ところで、雑誌『CLASSY』の誌名は、英語で「上流社会の」という意味だそうです。
バブル前夜の匂いがぷんぷんしますね。
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
今年の夏こそはバーゲンでたっぷりとクリスマス・レコードを買いまくろう
でも今年の冬に限っては僕は決して後悔することはないだろう。僕はこの六月に「今年の夏こそはバーゲンでたっぷりとクリスマス・レコードを買いまくろう」と決意し、それを大胆に実行したからである。それも実に八月のホノルルで十枚ものクリスマス・レコードを買い集めたのだ。ある店では「メリー・クリスマス」と声をかけられたりもした。(「八月のクリスマス」)
数ある村上さんのエッセイの中でも、「八月のクリスマス」は大好きな作品です。
「夏の盛りにクリスマス・レコードを買い求める」という行為は「さして困難なものではないにもかかわらず、なんとなくやりづらい」と村上さんは考えています。
なぜなら、「そのレコードがクリスマス・レコードで、季節が八月であるというだけで」「果たして今年のクリスマスに僕は本当にクリスマス・レコードを聴きたくなるのだろうか?」「クリスマスなんてそれほど意味のあるものなのだろうか?」という迷いが生じてしまうから。
「八月のさなかにクリスマス及びクリスマスの周辺的事物に対して価値判断を迫られるというのはけっこうつらいものなのだ」と真剣に悩む様子が、いかにも村上さんらしくて楽しい。
でも、一番の見せ場は、八月のホノルルでクリスマス・レコードを買ったら、お店の人に「メリー・クリスマス」と声をかけられたというエピソード。
アメリカ人なら、いかにもありそうな話だよなあと感心しました。
たとえばサマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉もそのひとつである
その頃に覚えた例文は今でもいくつか覚えている。たとえばサマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉もそのひとつである。(略)要するにどんな些細なことでも毎日つづけていれば、そこにおのずから哲学は生まれるという趣旨の文章である。女の人向けに言うと、「どんな口紅にも哲学はある」ということになる。(「哲学としてのオン・ザ・ロック」)
村上さんのエッセイには、いかにももっともらしくて、嘘か本当か分らないような話がたくさん登場します(もちろん、そこが魅力であるわけですが)。
学生時代の村上さんは勉強嫌いだったけれど「『英文和訳』の参考書を読むのだけは例外的に好きだった」そうです。
どうしてかというと「そこに例文がいっぱい載っているから」。
「この例文をひとつひとつ読んだり覚えたりしているだけでけっこう飽きないし、そんなことを続けているうちにいつの間にか、ごく自然に英語の本が読めるようになってしまった」というのも、嘘だか本当だか分からない話です。
だけど「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉は、確かに良い言葉だなあと思いました。
ちなみに、この言葉は村上さんの「1973年のピンボール」という小説の中にも登場しています。
あたしは45年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「1973年のピンボール」は、まだ本ブログに登場していないので、いずれ読書感想を書きたいと思います。
町で本を読みたいと思ったときは、なんといっても午後のレストランがいちばんだ
町で本を読みたいと思ったときは、なんといっても午後のレストランがいちばんだ。静かで、明るくて、すいていて、椅子の座り心地が良い店をひとつ確保しておく。ワインと軽い前菜だけでも嫌な顔をしない親切な店が良い。町に出て時間が余ったら書店で本を一冊買い、その店に入ってちびちびと白いワインを舐めながらページを繰る。こういうのってすごく贅沢で気分の良いものである。(「レストランの読書」)
このエッセイの始まりは「若者向けの雑誌が、よく『シティー・ライフ云々』といった特集をくんでいるけれど、正直に言って、そういうのは実際に都市に住んで気持良く暮らそうと思う人間にはあまりに役に立たないんじゃないかという気がすることが多々ある」という文章です。
そして、「細かい現実的情報は自分の足でコツコツと探して頭に刻みこんでいくしかなくて、けっこう面倒なものだが、この手の末端作業をマメにやっていると、生活はときに思いもかけぬほど滑らかにそしてイージーに流れていくことになる」という村上春樹流ライフスタイルへと続いていきます。
「たとえば音楽の流れていない感じの良いゆったりとした喫茶店をいくつか確保しておくのも大切なこと」で、「洒落た喫茶店はいくらもあるけれど、静かな喫茶店というのは急に探しても見つからないものなので、知っていると意外に役立ちます」というのは、確かに都市生活者にとって、重要なポイントなのかもしれませんね。
それにしても「町に出て時間が余ったら書店で本を一冊買い、その店に入ってちびちびと白いワインを舐めながらページを繰る」というのはメチャクチャ優雅で、いつか真似してみたいと思いながらも、いざとなると、なかなか実践の難しい読書術ではありますね。
村上さんのエッセイには、人生を楽しむコツが時々ひょいと顔を出したりして、だから、なかなかやめられないんですよね。
読書感想こらむ
1984年から1986年にかけて女性ファッション雑誌(しかも上流階級向け)に書かれたエッセイということで、いかにも優雅で楽しい話題が満載だなあと思いました。
バブル前夜の東京が持つ楽しい雰囲気だけが、このエッセイ集の中にはあります。
テーマも、ぼんやりとしているようで、読者層を意識してさりげなくお洒落な話題が散りばめられていて、当時のアラサー女子に人気のあった村上さんと水丸さんの様子が、よくわかりますね。
ブラームスとかフランス料理とかワシントンのジャズ・クラブとかトレーナー・シャツとかブティックとか(ローラ・アシュレイとか)、直球ではないけれど、なんとなくお洒落感の漂っている感じの話題のチョイスがさすが。
1980年代のエッセイ集って、何かの役に立つとは思えないけれど、良い息抜きにはなると思います。
どんな髭剃りにも哲学があるようにね。
まとめ
村上春樹さんの「ランゲルハンス島の午後」は、プチオシャレなエッセイ集です。
1980年代バブル前夜の明るくて楽しい雰囲気が味わうにはぴったり。
日常生活の隙間時間の息抜きにもお勧め。
著者紹介
村上春樹(小説家)
1949年(昭和24年)、兵庫県生まれ。
1979年(昭和54年)、「風の歌を聴け」でデビュー。
「ランゲルハンス島の午後」刊行時は37歳だった。
安西水丸(イラストレーター)
1942年、東京都生まれ。
村上春樹の小説にたびたび登場する「わたなべのぼる」という名前は、水丸さんの本名でもある。
「ランゲルハンス島の午後」刊行時は44歳だった。