庄野潤三「湖中の夫」読了。
本作「湖中の夫」は、「新潮」昭和36年2月号に発表された短編小説である。
作品集には未収録となっている。
米軍基地を追われていく未亡人の物語
雑誌の目次を見ると「新潮賞受賞第一作」とある。
昭和35年11月、庄野さんは『静物』によって<第七回新潮社文学賞>を受賞している。
本作「湖中の夫」は、受賞後最初の作品となったわけである。
舞台は不動産屋のテーブルである。
家を売る<男>と、家を買う<婦人>が向かい合っている。
婦人の隣には、不動産屋の<業者>が座っていた。
「実はこちらの方の御主人はアメリカの方で、最近まで基地に勤務して居られました。ところが、二ヶ月前に友達と一緒に湖へ釣りに出かけられて、遭難されました。そこでこの方はもうすぐ基地の住宅を出なければならなくなったわけです」(庄野潤三「湖中の夫」)
婦人は、死んだ夫の生命保険を使って、この住宅を買おうとしているものらしい。
交渉が無事に済んで、店の若い者が契約書類を作成している間、三人は、婦人の亡くなった夫のことを話している。
「釣りがホビイというわけですね」売り主の男はそう云ってから、「つまり御主人の趣味であったのですね」と云い直した。「はい。でも、私の主人は釣りよりも機械を組み立てたりする方が好きでした。機械がホビイでした」(庄野潤三「湖中の夫」)
買い主の婦人は、すべての交渉を業者に任せてあるので、余計なことは言わない方がいいと考えているように見えた。
売り主の男の方でも、自分の家を買うことになった相手とは、なるべくなら最も少ない会話で済ませたいと考えていた。
ただ業者だけは、やっと家屋売買をする運びとなったので、本当は晴々とした気持ちでいたのだった。
「主人は前から私に申して居りました。自分が死んだら、日本の墓地に葬るようにって」夫人はそう云った。「日本がお好きだったのですか」「はい。アメリカには帰らない、一生このまま日本にいると私に話していました」(庄野潤三「湖中の夫」)
婦人は時折泣きそうになるのをこらえながら話をした。
不動産屋での会話は続く。
「こちらの御主人は」と声を少し落して、まるまるした顔の業者が云った。「実はまだ死体が見つからないのだそうです」「はい、長い間捜索をしてくれましたが、どこにも見つかりませんでした。多分、湖の底に沈んでしまったのだろうということでした」(庄野潤三「湖中の夫」)
そこで不動産屋の業者は、「水がうんと冷たいので、死体がいつまでも腐らないんです。いつまでも冷たいから、沈んだきり上って来ないのです」と、まるで一般的なことを言うように、むしろ快活に話をした。
そして、潜水夫の話になったときには「潜水夫もいやなんでしょう。あんな湖へ行くと、底の深さはちょっと見当がつかないくらいですから」と言った。
「私の村にそういうのがいました。途中で止めて、よそへ行ってたんです。久しぶりに村へ帰って来ましたら、そいつの親父さんが潜っています。まだまだ親父には負けないぞと云って、飛び込みました。みんなの見ている前で死にました」(庄野潤三「湖中の夫」)
やがて、契約書ができあがり、三人はそれぞれ契約書に判を押した。
不動産屋での会話を再現しただけの地味な物語
「湖中の夫」というタイトルは、レイモンド・チャンドラーの『湖中の女』(1943)を連想させるが、本作はミステリーでもハードボイルドでもない。
不動産屋での会話を再現しただけの地味な物語である。
湖で遭難した男の遺体は見つかっていないが、そこから何か事件が展開していくわけではない。
米軍基地を出ていかなければならない婦人と、家を売る男が、時間の隙間を埋めるように話をしているだけだ。
ただ契約が成立して有頂天になっている不動産屋だけが、婦人の夫が死んだときの様子を推測してみたり、自分の故郷で潜って死んだ男の話をしてみたりする。
まるで空気が読めていない。
同じ空間で同じ時間を共有していながら、この三人はまったく何の共通点も持ち合わせていない。
そこに人生の奇妙な瞬間がある。
夫を亡くしたばかりの婦人の悲しみよりは、ほとんど詳細が描かれていない<売り主の男>の居心地の悪さに共感したくなった。
作品名:湖中の夫
著者:庄野潤三
雑誌名:「新潮」1961年(昭和36年)2月号
出版社:新潮社