時代小説の大家が綴る食エッセイの名作。
池波正太郎が愛した全国各地の名店が登場。
食に対する向き合い方を教えてくれた。
書名:池波正太郎
著者:散歩のとき何か食べたくなって
発行:1981/10/27(改版)
出版社:新潮社
作品紹介
本書は、時代小説の大家・池波正太郎が描く、食に関するエッセイ集です。
著者の池波正太郎は、これより前に「食卓の情景」(1973年)という食のエッセイ集を出版しており、本作は食エッセイの本としては2冊目の出版ということになります。
雑誌「太陽」(平凡社)に連載されていたものが、1977年(昭和50年)に平凡社から単行本として出版され、さらに、1981年(昭和56年)に新潮文庫として文庫化されました。
文庫化にあたり、池波正太郎は「あえて再取材を行わなかった」としています。
グルメ通としても名高い著者は、全国各地に行きつけの名店を持っており、本書ではそんな池波正太郎の行きつけの店が次から次へと登場してきますが、本書は、いわゆる「グルメガイド」ではないことに注意が必要です。
地域としては、東京、大阪、京都をはじめ、信州、名古屋、フランスまで、また、食べ物のジャンルも、寿司や蕎麦の専門店から洋食、甘味処に至るまで、著者のアンテナがとらえた幅広いお店が名を連ねています。
カバー装画も池波正太郎。
巻末に店舗データあり。
なれそめ
30代後半で、そろそろ男磨きのようなことしたいなと意識し始めた頃、最初に考えたのが「まずは池波正太郎先生の本を読もう」ということでした。
男磨きというのは、人生の経験を積んだ先輩諸氏の本を読むことが重要であり、真っ先に読んでおくべき先輩とは池波正太郎に他ならないと、当時の自分は考えたわけです。
そのときに初めて手に取った本が「散歩のとき何か食べたくなって」でした。
なにしろ、タイトルが柔らかくて池波初心者にも読みやすい感じがしたし、食文化については若い頃から関心があったので、食エッセイなら読みやすいと考えたのです。
今にして思うと、最初は「食べ歩きの参考」くらいに考えていたのかもしれませんね。
古い本ですが、現在も発行されていて入手が難しくないという事情もありました。
いろいろな意味で初心者向きの1冊だったのだと思います。
本の壺
「散歩のとき何か食べたくなって」は食のエッセイ集ではありますが、単なるグルメガイドにはあらず。
厳しい時代を生き抜いてきた著者ならではの深い物語でもあるんです。
老舗の名店を知る
「散歩のとき何か食べたくなって」の基本的な構成は、著者推薦の名店を紹介するというものなので、実在する老舗の名店が次々に登場します。
ちなみに、本書が書かれたのは昭和50年前後のことなので、この本を「グルメガイド」として使えるかどうか微妙なところ。
というよりも、むしろ、本書はグルメガイドとして書かれているものではないということに注意が必要です。
今、この本を読んで学ぶことができるのは、名店が名店と呼ばれる由縁についてではないでしょうか。
4つある月替わりメニューの付け合わせ野菜は、4つともそれぞれの料理に合わせているので全部違うという銀座の「資生堂パーラー」。
若い時から少しずつ集めた貴重な器(伊万里、九谷、織部、李朝など)を店で使っているてんぷらの「はやし」。
「うまくて安い」と言ってもらえることが本望だと語る連雀町の「松栄亭」。
老舗の名店には「名店」と呼ばれるべき必然性が必ずあるのだという著者の思いが伝わってくるような気がします。
食へのこだわりを知る
「散歩のとき何か食べたくなって」は名店ガイドではありますが、名店と向き合う著者の姿勢からは、食に対する男としての嗜みをうかがい知ることができます。
例えば天ぷら屋に行くとき、著者は「朝から何も食べない」と言います。
天ぷらというのは、職人が目の前で揚げてくれた熱いやつを瞬時に食べてしまわなければ意味がないし、揚げたての天ぷらを目の前にして、酒や会話にうつつを抜かしているのは、職人に対して失礼だと、著者は考えているのです。
著者の食に対する姿勢には、徹底したこだわりが感じられます。
「松栄亭」のポテト・サラダをテイクアウトしておいて、夜更けの腹ごしらえをするときみ、やや厚めに切った食パンの中へたっぷりとはさみこんで食べながら、ビールの小瓶を一本飲むとか、とんかつの「とんき」では、まずロースカツレツで酒かビールを飲み、それから串カツで飯を食べるとか、食べることに対する著者の情熱は凄まじいほどです。
ちなみに、当時著者は52歳でした。
五十をすぎると、人生の「残り時間」も高が知れている。「まだ、二十年もありますよ」という人がいるけれども冗談じゃあない。二十年なぞという歳月は、それこそ「あっ…」という間にやって来て、過ぎ去ってしまう。これからの私のすることは、もう限られている。(池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」より)
そんなことを言いながら、池波先生の食欲旺盛な暮らしぶりは、さすがだなあと思わずにいられません。
古き良き時代を知る
著者は、散歩を楽しみながら、現代と昔の時代とを対比することを忘れていません。
時代小説の大家としては、美しい町並みが時代の変化の中で失われていくことの寂しさ(あるいは怒り)を隠すことができなかったのだろうと思います。
震災や空襲で失われてしまった江戸の街並みを京都で見つけたような気がしたり、「東京オリムピック」で激変してしまった東京の街並みを嘆いてみせたり、著者の古き良き時代の東京に対する思い入れは並大抵のものではありません。
随所に、著者が少年時代を過ごしたかつての東京の街並みの描写が登場しているのは、本書が著者の郷愁というノスタルジーの上に書かれているからに他なりません。
そして、本書の読者は、著者による回想の旅をたどりながら、古き良き時代の日本の味を、心の中で再現してみたりするのです。
読書感想
「散歩のとき何か食べたくなって」は名店を教えてくれるだけではなく、大人の男性がどのように食と向き合うべきかということを教えてくれる名著だと思います。
著者の執筆が昭和50年前後ということを考えると、いわゆるグルメレポートとしては時代遅れになってしまっていることは疑いようがありませんが、優れた食エッセイとして、この本を読むとき、その魅力や素晴らしさは、いささかも損なわれていないと言っていいでしょう。
それはつまり、老舗と呼ばれる名店との付き合い方であったり、食の職人に対する敬意の持ち方であったり、あるいは、食そのものとの向き合い方であったりします。
こうした大人の男性としての「たしなみ」については、古い時代のものだからと言って失われてしなうものではないし、むしろ、現代では失われつつあるものを、昔の時代から教えてくれているような気がします。
本書の締めくくりにあたり、著者はこんなことを言っています。
このように書きのべてくると、いたずらに古いものをなつかしみ、それを追いもとめているようにおもわれようが、それでは、新しいものとは何かというと、それは、だれもが知りつくしている味気ないものなのである。その味気ない新しいものしか知らぬ世代のみの時代がやって来たときは、味気もない世の中になることは必定なのであって、そうした世の中に慣れきった人びとは、味気なさを感じることもなく、さらにまた、新しい時代を迎えることになるのだ。(池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」より)
著者は、さらに続けています。
そのころは、むろん、私どもは生きていない。また、いまの私が書いている「時代小説」のようなものも、ほろび絶えているやも知れぬ。私は、それを嘆いているのでもなく、また古いものへ、「しがみつこうとしている…」のでもない。ただ、古いものの味わいが衣食住に残っているうちは、「これを味わいたい」と考えているだけのことだ。だが、これだけは言っておこう。新しい新しいといっても、究極の新しいものというものは何一つないのだ。新しいものは、古いものからのみ生み出されるのである。(池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」より)
こういう文章を読んでいると、本書がただの食エッセイではないということを、強く示してくれているような気がしますね。
食を通して日本文化について考えるきっかけを与えてくれる、そんなエッセイ集です。
まとめ
これはグルメレポートではない、誇り高い日本の食文化への案内書だ。
池波先生は酒飲みなのに、締めは必ず甘いもの。
古いものの味わいが残っているうちは、これを味わいたいものだ。
著者紹介
池波正太郎(作家)
1923年(大正12年)、東京浅草生まれ。
戦後は東京都職員として区役所で働いていたこともある。
「散歩のとき何か食べたくなって」出版時は54歳だった。