読書コラム

『羊をめぐる冒険』の羊男は『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドだったのか?

『羊をめぐる冒険』の羊男は『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドだったのか?

サリンジャーの伝記映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』(2017)を観ているとき、村上春樹の『羊をめぐる冒険』に登場する<羊男>は、もしかすると、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公<ホールデン・コールフィールド>なのかもしれないと思いついたので、メモしておきます。

森で暮らす羊男、森での生活を望むコールフィールド

はじめに、どうして「羊男=ホールデン・コールフィールド説」を思いついたのかということについて。

『ライ麦畑』の終盤、コールフィールド少年は、都会を離れ森の中で静かに暮らしたいと語る場面があります。

世の中と関わることなく、隠遁生活をしながら生きていくことを、コールフィールド少年は切望しているのですが、これは、北海道の山中で一人きり暮らす羊男のライフスタイルを連想させます。

羊男は、森の中で暮らす理由を「戦争に行きたくなかったからさ」と答えていますが、これは、俗世間を離れて生きていきたいと考えているコールフィールド少年の姿と重なるものです。

もう少し踏み込むと、『ライ麦畑』の作者であるサリンジャー自身、『ライ麦畑』発表以後、社会から姿を消すように隠遁生活をして余生を過ごしました。

サリンジャーの引きこもりの理由は「執筆活動に専念したい」というものでしたが、戦争が嫌だから森の中で暮らしているという羊男の姿は、第二次世界大戦で重度の神経衰弱を煩ったサリンジャーの姿と重なるものだとも言えるでしょう。

まず、ここまでが、僕が「羊男=ホールデン・コールフィールド説」を思いついた理由です。

鼠もまたホールデン・コールフィールドだった!?

さて、仮に「羊男=ホールデン・コールフィールド」ということになると、『羊をめぐる冒険』で<僕>の親友である<鼠>もまたホールデン・コールフィールドである、という可能性が生じます。

『羊をめぐる冒険』で羊男は、「鼠の分身」としての役割も担っているからです。

鼠は心の中に<背中に星の印がついた邪悪な羊>を抱えたまま自殺しますが、そうなると、これは、コールフィールド少年の自殺という結末をも示唆するということになります。

森の中で隠遁生活を送る羊男と、<邪悪な羊>を道連れに自殺してしまう鼠。

ホールデン・コールフィールドの視点から考えたとき、果たして、これは何を意味するものでしょうか。

僕の考えた推測は、羊男と鼠は、コールフィールド少年のその後の人生を、二つの可能性から示唆した存在だということです。

『ライ麦畑』では、コールフィールド少年が、その後どうなったのかということは語られていません。

果たして、彼はどのような大人になったのか。

『羊をめぐる冒険』の作者は、『ライ麦畑』へのアンサーソング(続編)をイメージして、『羊をめぐる冒険』を書いたのではないでしょうか。

ご存じのとおり、ホールデン・コールフィールドは、<インチキで汚い大人社会>に反発する純粋な少年ですが、もしも、大人社会との折り合いをつけることができずに成長していった場合、彼はどうなるのでしょう。

選択肢のひとつは、彼自身が話していたように、一般社会から身を隠して森の中でひっそり生きるという「羊男スタイル」の生き方をしているということ。

もうひとつの選択肢は、社会を攻撃しつつ自ら死を選ぶ「鼠スタイル」の生き方をしているということです。

ホールデン・コールフィールドは、『羊をめぐる冒険』の中で、羊男と鼠という、それぞれに生きづらさを抱えた存在として、象徴的に描かれているような気がします。

邪悪な羊は、インチキで汚い大人社会のメタファー!?

もし、そうだとすると、鼠が心に抱えて死んでいった<邪悪な羊>とは、一体何でしょうか。

自ら心中を選択するくらいコールフィールド少年が忌み嫌っていたものと言えば、あの<フォニーなもの>、つまり<インチキで汚い大人社会>です。

『羊をめぐる冒険』の中で、鼠は<インチキで汚い大人社会>を全否定するために、死んでいったのではないでしょうか。

鼠の抱えていた<邪悪な羊>については、<1970年代の亡霊>とする説があり、僕もこの考え方で問題はないと考えています。

しかし、「羊男=ホールデン・コーンフィールド説」にあっては、<邪悪な羊>は、<インチキで汚い大人社会>としなければなりません。

考えてみると、『羊をめぐる冒険』で主人公の<僕>が働いている会社は、<インチキで汚い大人社会>の権化とも言うべき広告会社です。

鼠の仕掛けによって、<僕>は広告業界を追われてしまうのですが、これは、<インチキで汚い大人社会>からの離脱と考えることができます。

<邪悪な羊>の継承者となることを目論む<先生の秘書の黒服の男>は、スノビズムの塊であり、さしずめ<インチキで汚い大人社会>の象徴でしょう。

鼠が<邪悪な羊>を抱えたまま自殺し、さらに、<黒服の男>を別荘もろとも爆殺する結末は、<インチキで汚い大人社会>そのものの爆破をイメージしているとも指摘できるのです。

ここまで考えてくると、「羊男=ホールデン・コールフィールド説」にも、一定の論理性が見えてきます。

羊男と鼠は、ともにコールフィールド少年の「その後の姿」であり、結論としては、隠遁生活か自殺・爆破しかないのだという仮説の提示。

羊を探す旅物語は、コールフィールド少年の未来を提示するために用意された、アドベンチャー・ストーリーだったのかもしれませんね。

羊男はジョン・レノン射殺事件から生まれた!?

ところで、仮に「羊男=鼠=ホールデン・コールフィールド」だったとした場合、『羊をめぐる冒険』の作者は、なぜ、このような時期に、ホールデン・コールフィールドを書かなければならなかったのでしょうか。

サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』を発表したのは1951年(昭和26年)で、村上春樹が『羊をめぐる冒険』を発表したのは1982年(昭和57年)のこと。

二つの作品には30年以上ものタイムラグがあり、1980年代に入ってホールデン・コールフィールドを書くことに、どのような意味があったのでしょうか。

『ライ麦畑』は、確かに1950年代に発表された準古典ですが、1980年当時、その影響力は決して小さなものではなく、むしろ、80年代アメリカ社会の中で、新たな価値観を携えた再評価が行われていました。

その象徴が、1980年(昭和55年)12月8日に発生した「ジョン・レノン射殺事件」です。

犯人の<マーク・デイヴィッド・チャップマン(25歳)>は『ライ麦畑』の信奉者で、ジョン・レノン殺害後も現場に留まり、『ライ麦畑』を読み続けていたと伝えられています。

この事件は、ホールデン・コールフィールドのその後を考えるに、十分な動機となり得るものだったのではないでしょうか。

<インチキで汚い大人社会>と折り合いをつけることのできない<イノセントな少年>は、卑劣なテロ行為によってでも大人社会を破滅しなければならないと考えていた。

この歪んだ社会性と時代性を描くために使われた容れ物が、つまり『羊をめぐる冒険』という長編小説だったのです。

終盤、鼠がつぶやく「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ」という感傷的な言葉は、イノセントな存在としての鼠を印象づける効果を与えているような気がします。

そして、イノセントな存在としての鼠は、<インチキで汚い大人社会>との折り合いをつけることができないまま、社会から自分の存在を葬り去ることを選択します。

『羊をめぐる冒険』の登場人物の中でも、純粋な心を持ったまま死んでいく鼠に人気があるというのは、ある意味、現実の<インチキで汚い大人社会>で生きる人々からのアンチテーゼということだったのかもしれませんね。

まとめ

ということで、以上、今回は、<村上春樹の『羊をめぐる冒険』に登場する<羊男>は、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公<ホールデン・コールフィールド>だったのか?問題>について、自分なりに考察してみました。

もちろん、これは、あくまでも作品解釈上の遊びであって、文芸批評とか文学論とかいうつもりは毛頭ありません。

ただ、自分の好きな作品同士のつながりを考えていく行為は、作品への理解を深める上で、意外と有効なことなんじゃないかなと思いました。

皆さんも、自分なりの仮説を立てながら、世界の名作を楽しんでみてはいかがですか?

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じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。