読書コラム

伊藤智永「ギャツビーのシャツで泣け」フィッツジェラルドと新しい資本主義

12月4日付けの毎日新聞(朝刊)をめくっているとき、「ギャツビーのシャツで泣け」という見出しが目に付いた。

フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」を愛読書とする者にとって、このフレーズは必ず反応してしまうものだろう。

今では人妻となっている最愛の女性と再会したギャツビーは、豪邸内にある衣装棚から、英国から届いたばかりの高級シャツを次から次へと放り出して見せる。

彼女は、目の前に積み上げられたシャツに、顔を埋めて泣きじゃくるのだ。

「何て美しいシャツなの。こんな素敵なシャツ見たことない。なんだか悲しくなっちゃった」

美しい青春小説「華麗なるギャツビー」を代表する名場面だが、なぜ、このシーンが朝刊の中に登場しているのか。

小説の場面紹介に続いて、筆者の伊藤智永は、次のように綴っている。

女は美しくも惰弱な俗物として描かれる。男の圧倒的な財力に感激したのだろうか。それなら何が悲しいのか。実らぬ純潔のため、汚濁したカネの海を泳ぎ渡る男の徒労と破滅を予感したからに違いない。いつ着るとも知れぬシャツの山は、女が愛してやまないぜいたくと過剰消費の象徴である。とてつもない富と豊かさの背後には、未来の悲しみが人知れず伴走しているものなのだ。(伊藤智永「時の在りか」)

実は、この文章は、毎日新聞で連載中の「時の在りか」というコラムに掲載されたものである。

アメリカ文学を論じているのではなくて、1920年代のアメリカを象徴する場面を引用しながら、岸田首相の唱える「新しい資本主義」を論ずるものなのだが、誰もいない早朝のオフィスで「ギャツビー」の文字を新聞に読む気持ちは、奇妙に新鮮だった。

普段のビジネスが、あまりに無味乾燥なせいもあるだろうが、それにしても「ギャツビーのシャツで泣け」というタイトルである。

コロナ対策の名のもとに、各国は第二次大戦後の復興期を上回る公金を吐き出し、金融資本主義がとめどなく自己増殖を続ける中、デジタル資本主義が「さらなる経済成長を目指せ」と、国家や企業や個人を脅かす。

「ギャツビーから一世紀、デジタル表示のシャツでは、顔をうずめて泣けもしない」とは、古いアメリカ文学を愛好する者にとっては、なかなか気の利いた台詞ではないだろうか。

朝からこんなコラムを読んだせいか、その日は一日「華麗なるギャツビー」のことを考えながら過ごした。

デジタルデータに囲まれて生きる時代、たまにはそんな一日があっても、誰の迷惑になるわけでもないだろう。

ABOUT ME
じゅん
庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。庄野潤三さんの作品を中心に、読書の沼をゆるゆると楽しんでいます。