『現代童話』というアンソロジーの中に、庄野潤三「ひばりの子」が収録されていた。
「ひばりの子」は、短編作品ではなく、長編「ザボンの花」を構成するひとつの章である。
1950年代から80年代にかけて書かれた童話
現代童話—といっても、別に現代詩や現代俳句にみかけられるような難解なものというわけではありません。1950年代から80年代にかけて書かれた童話、といったほどのものです。子どものため—というよりも、子どもから読める小さな物語の、この30年ばかりのアンソロジーということになるでしょうか。(今江祥智「解説」)
もっとも、「このアンソロジーに収めてあるのは、いわゆる童話ばかりではありません」と、解説の今江祥智は続けている。
「当代を代表する童話や絵本の原型、それに子供や子供についてのすぐれたエッセイや評論も収めました」とあるとおり、本書に収録された作品群の特性は一定ではない。
「大人が、文学という窓を通してどのように子供を見たり考えたり捉えたり描こうとしているのか—の見取図が、少しばかり立体的に見えるように、と思ってのことです」というのが、本書に収録された作品群の共通項と言うことができるだろう。
青いガラスの上にろう石でかいたように、美しい飛行雲が、キという字をかいて、そのまま横の棒をどこまでも延ばしているのだった。
正三がなつめと四郎を呼んで畑中の道を帰って来ると、四郎がきゅうに立ちどまって空を指さした。春の空の高い高いところで、飛行機が大きな落書きをしているのだ。青いガラスの上にろう石でかいたように、美しい飛行雲が、キという字をかいて、そのまま横の棒をどこまでも延ばしているのだった。兄弟はそれに見とれた。(庄野潤三「ひばりの子」)
『ザボンの花』は、1955年(昭和30年)、日本経済新聞に連載された。
庄野さんにとって、初めての新聞連載小説であり、初めての長編小説でもある。
当時の庄野さんは、まだサラリーマンを続けながら小説を書いていたころで、一家五人で大阪から東京へ移住してきて、石神井で暮らしていた。
この石神井での日常の暮らしを題材に、3人の子どもたちが登場する家族小説が『ザボンの花』で、その後の庄野さんの家族小説の原型が、この物語の中にはある。
やがて、生田の丘の上の家に移り住んだ庄野さんは、『夕べの雲』に始まる5人家族の物語を、次々と書き続けることになるのだが、そんな庄野さんの家族小説を愛読する人たちにも、この『ザボンの花』は今も人気の作品となっている。
これはわが国には珍しい極めて上質の家庭小説ではないでしょうか
そういえば庄野(潤三)さんのものも長篇『ザボンの花』の第一章です。日本経済新聞に152回連載された長篇小説ですが、お読みいただければ分かりますように、これはわが国には珍しい極めて上質の家庭小説ではないでしょうか。冒頭の部分だけでもあえて収めたゆえんですが、これもぜひ全篇をお読み下さい。(今江祥智「解説」)
日本経済新聞に連載されたのだから、『ザボンの花』は明らかに「童話」ではない。
しかし、『ザボンの花』で描かれる世界は、子どもたちに対する愛情の視線に包まれており、子どもから大人まですべての人間の人生に対する慈しみがある。
加えて、庄野さんの小説は平易な文章で簡潔に綴られていくから、大人だけが読むものと限定する必要はない。
考えてみると、庄野さんの小説は人生を肯定的にとらえて、日常の中の楽しいことや嬉しいことだけに着目をして、辛いことや苦しいことをあえて排除していることが少なくない。
それが庄野文学のひとつの大きな特徴になっているのだが、楽しいことだけで構成される物語は、既にひとつの「童話」と言ってしまってもいい。
庄野さんは生涯を通して、大人のための「童話」を書き続けてきたようなものではないか。
夢のある物語が童話であるとしたなら、庄野さんの書く物語は、本当に童話であったのかもしれない。
書名:現代童話1
編者:今江祥智・山下明生
発行:1991/2/15
出版社:福武書店(福武文庫)