「うさぎのミミリー」の新潮文庫版(2005年)の巻末には、庄野潤三と江國香織の対談「静かな日々」が収録されている。
この対談は、「新潮」2002年2月号に掲載されたもので、晩年の庄野さんの作品に対する姿勢を伺うことができて興味深い。
ちなみに、「うさぎのミミリー」は、晩年の庄野文学を代表する「夫婦の晩年を描いたシリーズ」の7作目に当たる長編小説である。
そこに書き留めまして、原稿を書くときは、それを見ながら書いてゆくのです。
(江國)
ノートがたくさんありますが、その日その日の出来事を、原稿にお書きになる前に、日記のようにしてお書きになるのですね。
(庄野)
はい。そこに書き留めまして、原稿を書くときは、それを見ながら書いてゆくのです。
(江國)
ノートから原稿になるときに、どういうふうに変わっていくのか、いかないのか、興味があります。
(庄野)
大体、その通りですね。
(江國)
やはりそうですか。そのまま。
(庄野)
そのままです。
(江國)
名前もそうですか。
(庄野)
はい。
(江國)
そうしたいと思われた理由があるんですか。
(庄野)
さあ、不精だから(笑)
非常にゆったりとした、悪くない意味で間延びしている対談の空気が、とてもよく再現されている。
あたかも、日記のような晩年の庄野文学のベースは、やはり日記にあるのであって、日記そのものが、ひとつの文学作品と言えないこともない。
むしろ、日記文学のようなものだと考えた方が分かりやすいけれども、そこに描かれる出来事は、非常に厳しい著者の目によって取捨選択されていることを忘れてはならないだろう。
日記からそのまま作品が生み出されるのは、著者が「不精だから」ではなく、日記の時点で既に文芸作品としての完成度が高いことを意味している。
もう初期のころのものは読みたくないですね。
(江國)
昔書かれたものについて、今ではとてもああいうふうには書けないなとお感じになることはありますか。
(庄野)
それはありますね。ぼくは最初のころ、「愛撫」というのを書いたけど。
(江國)
あれ、素敵でしたよ。
(庄野)
よく書いたなと思います。でも、やはり当時から身近なことしか書けないんで、そういう意味では仕方なかったかな。
(江國)
読者としては、初期の「愛撫」「舞踏」「プールサイド小景」とかも、素敵だな、いいなと思うのですけど、ご本人は時間がたつと、そういうふうに感じられるものなのかしら。
(庄野)
もう初期のころのものは読みたくないですね。批評家が何か言ってくれても、褒められても批判されても、別にこたえないんです。ただ、それらはそのときどきで精一杯書いたものですから、よくやったとは思いますが。
「第三の新人」の小説家の一人として、庄野潤三が語られるとき、そこに登場するのは今も、「プールサイド情景」や「静物」などといった、初期の時代に書かれた、いわゆる名作群の作品であることが多いが、著者の庄野さんは「もう初期のころのものは読みたくないですね」と、はっきり語っている。
もちろん、それは初期の作品を否定するものではないだろう。
「ただ、それらはそのときどきで精一杯書いたものですから、よくやったとは思いますが」と補足しているように、初期の作品が風化したということではなくて、時間の上に作品を積み重ねてきた作家としての実感のようなものだと解釈したい。
庄野文学の場合、ある時点で作風が大きく変化していく部分もあったから、初期の作品に対するスタンスが難しいといった事情もあるのかもしれない。
「やはり当時から身近なことしか書けないんで、そういう意味では仕方なかったかな」という言葉には、作家の本音を感じた。
『貝がらと海の音』で、がらっと変わったわけではありません。
(庄野)
ちっとも変り映えのしないことばかり書いてます。もうやめとけと言われるまで書くつもりでね(笑)
(江國)
誰も言いません(笑)。あれを読んでいると、いろんなところへお二人でお出かけになったりして、うらやましいと思います。でも、『貝がらと海の音』の前にも、『鉛筆印のトレーナー』などで、お孫さんのフーちゃんや春夫さんの活躍される話を書いておられますね。
(庄野)
はい。その前にも似たようなことを書いていました。『貝がらと海の音』で、がらっと変わったわけではありません。ただ、「夫婦の晩年」というふうに「あとがき」に書くようになったのは、『貝がら』が最初なんです。
庄野さんが「夫婦の晩年」シリーズを書き始めたのは、『貝がらと海の音』(新潮社、1996年)が最初だけれど、フーちゃんが登場する「フーちゃん」シリーズは『エイヴォン記』(講談社、1989年)が最初だから、後期の庄野文学は、この辺りから始まっていると言えるのかもしれない。
大きな転換点となっているのは『世をへだてて』(文藝春秋、1987年)に書かれている病気だけれど、その直後にフーチャンが生まれたことが、庄野文学にとって大きな影響を与えたのではないだろうか。
後期庄野文学にとって、フーちゃんの存在は本当に大きかったような気がする。
その「フーちゃん」だけれど、対談の中で庄野さんは「私の書いたものに出てくるのは(中学)二年生ですが、もう三年生で、来年高校に進みます」と、現実と作品世界に一年間のタイムラグがあることを明かしている。
江國さんが「それはなぜですか」と訊ねると、庄野さんは「自然にそうなるのです」と答えていて、そのあたりの詳しい説明は省かれている。
後期庄野文学が、日記や随筆ではなく、あくまでも小説であることの本質が、そうした作家の意識の中に隠されているような気がする。
午後は原稿を書くということは一切しないのです。夜も電気の下では書かない。
(江國)
何時頃起きられるのですか。
(庄野)
起きるのは特別早くないです。六時半頃かな。
(江國)
でも、早いです。
(庄野)
午前中仕事して、仕事に一区切りがついたところで一回歩いて、午後は原稿を書くということは一切しないのです。夜も電気の下では書かない。もう四十年以上そんな習慣が続いています。ニワトリみたいなもので、朝は日が差したらコケコッコーと起きて、夜暗くなったら床について眠る。
(江國)
四十年以上も。四十年前のそのころから電気の下で書かないなんて、ゴージャスです。ほんとうに恰好いいんですね。
(庄野)
ここへ越してきてからずっと同じ生活です。
この対談は2002年2月に発表されたものだが、「クウネル」2002年11月号にも、庄野さんのインタビュー記事が掲載されていて、同じような話を庄野さんがしている。
「クウネル」の記事は、『うさぎのミミリー』が若い女性に人気だといったような話だったと思うが、話の内容としては、「もともと空想して書くというのが好きじゃないんですね」とか「日記を見ながら原稿にしていく。たいてい、ほぼそのままが原稿になる」とか「書くのは午前中だけです。ぼくは電気をつけて原稿を書くということはしないんです。酉年なもんですから」とか、今回の対談と同じようなことを、庄野さんは話しているようだ。
「夫婦の晩年」シリーズが若い世代の女性に支持をされていた時だったから、そういう読者層に対するメッセージとしては、似たような内容にならざるを得なかったのかもしれない。

なお、この対談、単行本「うさぎのミミリー」には収録されていないので、ご注意を。
書名:うさぎのミミリー
著者:庄野潤三
発行:2005/5/1
出版社:新潮文庫