庄野潤三「土人の話」読了。
本作「土人の話」は、「小説中央公論」1960年(昭和35年)7月号臨時増刊に発表された短編小説である。
土人の話と学生時代の友人の思い出
本作「土人の話」は、学校友だちの<桑木>に関する思い出を綴った作品である。
作品は、ニュージーランドの土人の歌から始まっている。
それは、<私>が、小学校五年の七夕祭りに踊ったもので、「マオリハーカー・ブリベァー」という文句から始まる。
九歳になる長男にこの歌を教えたところ、長男はすっかりとこの歌が気に入ったらしく、宿題もやらずに、「マオリハーカー・ブリベァー」と間延びした声で怒鳴っている。
ところで、家の中で聴こえている子どもの「マオリハーカー」に耳を傾けていると、<私>は、学校友だちで戦争末期に陸軍の補充兵としてボルネオへ行った<桑木>のことを思い出した(ここから本題に入っていく)。
というのも、彼は、復員してから最初に<私>の家を訪ねてきたとき、ボルネオのダイア族のことを、<私>に話してくれたのだ。
彼の舞台が駐屯している近くには、人食い人種のダイア族が住んでいた。
ある時、公用で出かけた兵隊が晩になっても帰って来なかった。どうしたんだろうと心配していると、翌日になって食われてしまっていることが分った。食べた土人はすぐに捕った。その土人は取調べに対して、いちばんうまいところは掌のふくらんだところと耳たぶと鼻の肉だと告白した。(庄野潤三「土人の話」)
やがて、桑木は中隊で最後まで生き残って、日本へ帰ってきた。
<私>は桑木の話を聞きながら、「何だか千載一遇の機会を逃したような気がする」。
<私>は、外地へは赴かなかった代わりに、人食い人種のダイア族にもお目にかからなかったからだ。
それからしばらくして、<私>は彼の教会で行われた結婚式に出席した。
復員後、彼は東京の神学校へ入って、牧師の試験に合格し、それから四年近くかかって、焼け跡にバラックの教会を建てていたのだ。
学校にいた頃、みんなの前に立って話すことが苦手だった桑木は、壇上に立って説教することが最も重要な仕事である牧師になっていた。
同じ学校に通った仲間たちも、人生は人それぞれだ
この「土人の話」は、単行本に収録されていない。
土人の話から学校時代の友人を回想していくという、いかにも庄野さんらしい、しみじみとした味わいのある作品なので、作品集に入っていないというのは、なんだか残念である。
この年の六月、庄野さんは『群像』に「静物」を発表したばかりであり、本作「土人の話」は、その直後の作品でもあった。
翌年の1961年(昭和36年)には、神奈川県生田市へ転居するから、本作は、東京時代の最後の時期の作品ということにもなる。
プロットとしては、ニュージーランドの土人の歌から学生時代の友人<桑木>の思い出へとつなげていく構成となっているが、物語のテーマとなっているには、もちろん、友人・桑木の思い出である。
陸軍の補充兵としてボルネオで従軍した桑木に対して、<私>は、海軍へ入隊したものの戦地へ赴くことはなかった。
私は桑木とほぼ同じ頃に海軍に入隊したが、外地へは到頭一度も出なかった。そのため、彼が味わったような怖しい経験もしなかった代り、人食人種のダイア族にもお眼にかからなかった。十人目まで数えると、もう一度始めから数え直す英印軍の土人の兵隊も見ることが出来なかった。(庄野潤三「土人の話」)
同じ学校に通った仲間たちであっても、人生は人それぞれである。
何が正解だったのかなどということは、永遠に分からないだろう。
ただ、学生時代には頼りなく思えていた友人の桑木が、焼け跡に教会を建てた、その執念に、<私>が感激したということだけは間違いのないことだった。
作品名:土人の話
書名:小説中央公論
著者:庄野潤三
発行:1960年7月臨時増刊
出版社:中公公論社