読書にも自分の中だけにある短期的な流行のようなものがあるらしい。
この秋、僕は古い随筆集をたくさん読んだ。
「古い随筆集」をもう少し具体的に言えば、小説家ではない、いわゆる知識人と呼ばれる人たちによる、昭和30年代から40年代にかけて書かれた随筆集である。
一番おもしろかったのは、早稲田大学でフランス文学を教えていた村上菊一郎の随筆集で、『マロニエの葉』(1967年)と『ランボーの故郷』(1980年)は、どちらも繰り返し読み返したいと思える内容のものだ。
村上菊一郎という名前を、僕は庄野潤三の作品の中で覚えたが、早稲田大学の先生くらいのイメージで、随筆集を刊行しているということは全然知らなかった。
英文学者で随筆家としても著名な福原麟太郎は『福原麟太郎随想全集』を持っているが、先日は随筆集『諸国の旅』(1962年)と『春のてまり』(1966年)の署名本を手に入れた。
全集は便利だけれど、本を所有する楽しさという意味では、単行本をコツコツを集める醍醐味は捨てがたい。
とりわけ、三月書房の随筆集には装幀の美しいものも多く、本質的な本の魅力というものを思い出させてくれる。
東京師範学校で福原麟太郎を教えた英文学者・岡倉由三郎の随筆集『イーリア随筆集』(1965年)を手に入れたときはうれしかった。
限定300部という稀少な本なので、大切に読まなければならないと思う。
早稲田大学でフランス文学を教えていた山内義雄の随筆集『遠くにありて』(1975年)は、没後に刊行された氏唯一の随筆集。
刊行年は新しいが、戦後から高度経済成長期まで、幅広く古い随筆を読むことができる。
奥野信太郎は慶應義塾大学で中国文学を教えていた人だが、軽妙な随筆に人気があり、テレビでレギュラー番組も持っていたらしい。
『おもちゃの風景』(1964年)や『町恋いの記』(1967年)など、三月書房から出ている随筆集は楽しく読むことができた。
三月書房の随筆集と言えば、戸板康二『女優のいる食卓』(1966年)は良かった。
随筆の中でも紀行随筆の類が大好きなので、昭和中期のヨーロッパ紀行などというものを、もっとたくさん読んでみたいと思える動機づけとなったほどである(大岡昇平『スコットランドの鷗』は、この流れで探してきた)。
こうして振り返ってみると、1960年代、昭和40年前後のものを多く読んでいることが分かる。
良い随筆というのは、読んでいて全然古くさい感じがしない。
むしろ、懐かしい写真アルバムをめくるような楽しさがある。
小さなエッセイの中に知識の断片が散りばめられている
この秋、僕は小説家ではない人たちの書いた随筆を好んで読んだ。
手当たり次第に読んでいくうちに分かってきたことは、僕はどうやら大学の先生が書いた随筆が好きらしい、ということである。
大学の先生というのは、学生にモノを教えることが仕事だから、たくさんの知識を持っている(知識がなければ、大学の先生なんかにならないし、なれない)。
豊富な知識を有しているから、小さなエッセイの中にも、有用な知識の断片というものが散りばめられることになる。
さりげない、ちょっとした一つの文章の中にも、教養の片鱗が姿を見せている。
教養のある文章は、読んでいて心が豊かになるものだ。
新聞や雑誌の片隅に発表されたものが多いから、ダラダラと長くないところもいい。
好きなページの好きな随筆から自由気ままに読んでいく楽しさがある。
この秋、僕は、こんなに素晴らしい随筆の世界を知らないなんて、人生がもったいないとさえ思えるようにまでなった。
これからも僕は、古い時代に書かれた随筆の世界で溺れていたい。