ここでは、庄野潤三の長篇紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」について紹介しています。
夫人と一緒にロンドンを訪ねたときの、貴重な旅行記です。
概要
「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」は、庄野潤三の長篇旅行記である。
初出誌は「文学界」で、1982年(昭和57年)1月号から1983年(昭和58年)8月号にかけて、長期連載された。
単行本は、1984年(昭和59年)2月10日、文藝春秋から刊行されている。
装丁は川島羊三。
帯には「温雅な人生の充実と/人と人とのきずな/チャールズ・ラムを偲ぶロンドン日記/ユーモアとペーソスで今も親しまれる19世紀の文人ラムの生まれたクラウン・オフィス・ロウとゆかりの街を訪ねる香り高い紀行文学」とある。
作品名の「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」は、チャールズ・ラムの代表作『エリア随筆』の「法学院の老判士」に、「陽気なクラウン・オフィス・ロオ(私の生れた場所である」は堂々たる流れに対し、その流れは、、、」と登場しているところに由来している。
旅行記ではあるが、ラムの『エリア随筆』をはじめ、福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』など、ラムにまつわる書籍からの引用も多く、充実した文学紀行となっている。
2011年(平成23年)12月9日、講談社文芸文庫において文庫化された。
執筆の背景
庄野さんがチャールズ・ラムの『エリア随筆』を愛読するようになったのは、大阪外国語学校英語部に入学した18歳の頃である。
小説家として生計を立てるようになった後も、庄野さんは多くの随筆の中で、チャールズ・ラムや『エリア随筆』に触れており、庄野文学の基礎的な部分の多くが、チャールズ・ラムに影響を受けていることが分かる。
また、庄野さんは、著名な英文学者として知られる福原麟太郎の著作を敬愛しており、とりわけ、福原さんの代表作ともいえる『チャールズ・ラム伝』に深い感銘を受けたことも、庄野さんの随筆の中には綴られている。
そんな庄野さんのチャールズ・ラムへの思いを知っていた、文藝春秋社の編集者であった高橋一清が「ロンドンへ行ってラムの書いた街を観てみませんか」と以前から温めていた大きな企画を提案したところ、庄野さんは「妻を伴って行きます」と即答した。
これが、昭和55年(1980年)の初めころのことであり、その年の5月、庄野さんは約束どおり夫人を同伴してロンドンを訪ね、十日間の滞在を楽しんだ。
ちなみに、渡英時の庄野さんは59歳。
この時のロンドン滞在記は、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』として、翌年の昭和56(1981)年の晩秋から書き始められ、「文学界」に連載されることになる。
あらすじ
『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』は、「文学界」昭和57年(1982年)1月号から、昭和58年(1983年)8月号までの長期に渡って連載された。
ロンドン滞在記としては、宿泊先のホテルや顔なじみとなった酒場、チャールズ・ラムに関係のある旧跡を訪ねた話などが中心となっている。
その滞在記録と重ね合わせるようにして、チャールズ・ラムに関する膨大なエピソードが綴られているので、単なるロンドン滞在記というよりは、チャールズ・ラムに関する評伝と言っても間違いではない。
もっとも、著者である庄野さんは、既に福原さんの『チャールズ・ラム伝』という素晴らしい評伝がある以上、あえて自分がラムの評伝を書くことにはならないと言っているから、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』は、やはりチャールズ・ラムゆかりの地を訪ねる文学紀行とするのが、最も適切なのかもしれない。
チャールズ・ラムとの出会い
東印度会社の会計係を勤めながら、もうすぐ二十六歳になろうとしているチャールズ・ラムが、湖水地方で田園生活を送っているワーズワースに宛てた手紙の中で抑え切れないように讃歌を書いた古い都の、その舗道を一度踏みしめてみたいという気持は前からあった。
一昨年(1980年)の五月、妻を伴ってロンドンを訪問した私は、ストランドの賑やかな通りに面したホテルで十日間を過した。
これから「ロンドン日記」をお目にかけるついでに、その手紙や随筆のいくつかに触れ、福原さんの名著『チャールズ・ラム伝』に描かれた生涯のいろんな時期を思い起しながら、「その淋しい炉辺から消えていった、うかれもののやさしい人」を偲びたい。
五月十三日
はじめ一時ごろに目が覚め、継ぎ足し継ぎ足し何とか六時ごろまで眠り、あとはもう眠れないまま目を閉じているうちに窓の外が白んで来た。
八時半ごろ、一階のコーヒー・ショップ、ゲイエティへ行くと、痩せた女の給仕が来て、コンチネンタルかイングリッシュかと聞いた。
五月十四日(晴)
ストランドのクック社に寄って両替をしてから、少し先の角を右へゆるい坂を上ると、コヴェント・ガーデン。ロンドンの名所の青物市場のあるところだが、路面を掘り返すドリルの音がして、市場の建物は囲いの中に隠れて見えない。
手前に屋根は附いているが青空市場といった趣の一画があり、デニムのズボンやブラウス、スカート、毛糸、生地などの衣料品の安売りをしている。
五月十五日(晴)
ハムプトン・コート駅に着いたのが、十二時十五分前であった。
年のいった、貫禄のある駅員がいて、往復か片道かと聞く。
帰りはテムズを船で下る予定にしているので、片道にする。往復だと半額近くになるそうだ。
橋を渡る時、風が随分強く吹いた。
五月十六日(晴)
六時半ごろ、タクシーでヴィクトリア駅の向いのオーヴァトンへ食事に出かける。
小沼丹の『椋鳥日記』に出て来る魚料理専門のレストランで、小沼が最初にそこへ入ったのは六月の下旬であった。
同じ経営の魚屋が隣にあり、そこから魚を運んで来るので、ヴィクトリア駅の傍の魚屋レストランと呼んでいる。
五月十七日(晴)
やがてイングランド銀行が行手に現われた。
こちらの通りから一つ向うの通りまでひろがっていて、ひとまわりするだけでも時間がかかりそうだ。
この近くにラムが東印度会社へ入る前に半年ほど勤めた南海会社があったが、跡はおそらく分からなくなっているに違いない。
五月十八日(晴)
スイス・コテッジの近くまで来て、井内夫人は地図の索引で父のいたクロスフィールド二番地を探してくれた。
同じ町名がいくつかあるが、スイス・コテッジには一つだけ。
クロスフィールド・ロードというのがそれらしい。静かな住宅街を車を走らせる。
五月十九日(晴)
ここでクラウン・オフィス・ロウの壁を背にして庭園の向うに見える黒ずんだ煉瓦の建物の屋根をあたりをスケッチしている妻を、ラムを記念する石の文字板が入るように写生する。
途中で建物の右端に近く、妻の頭のすぐ上の高さに CROWN OFFICE ROW と彫ってあるのに気が附いた。
五月二十日(小雨)
帰りはウェストミンスター橋へまわり道して下さった。
この橋の上から国会議事堂を方を見た眺めがいちばん好きなんですと二人でいわれる。
橋の半ばあたりに車を停めて、欄干のそばに立つ。議事堂のうしろにビッグ・ベンの時計塔が見える。
白い船が行き交う。下を覗くと、満々たる水の流れだ。
ウェストミンスターにあるホテルからひとりで歩いて来られた福原さんが、暫く川波を見ていて、やがてポケットから取り出した一枚の名刺を落したのはどの辺りだろうか。
五月二十一日(晴)
給仕の女の子が途中でテーブルへ来た時、君はいつも働いている、よく働くねといったら、フライデーが休みですといった。
休みはちゃんとあるということだろう。
君はこの店の星だというと、顔をちょっと赤らめて、ノー、ノーといった。
デザートはチーズにしたが(妻はチョコレート・アイスクリーム)、いっぱい載せた板を持ってきて、これはと一つ指すと、スモークト・チーズ。
うまい? イエス、グッド。
そういって笑う。
五月二十二日(曇)
六階の部屋へ戻って、妻は荷物をトランクに詰め、私はロンドンで最後の昼寝をする。
夕食は考えた末、キャリッジ・ルームに決めたが、その前にビーフィーターへ行って、働き者で親切な給仕の女の子に妻が持って来た風呂敷を上げたい。
で、六時前に着替をして、コートを着て出かける。寒い日なのに下は混んでいた。
あとがき(抜粋)
四十数年前、生れて初めて丸善で買った洋書がエヴリマンズ・ライブラリーの『エリア随筆』であったから、縁はあったわけだろうが、いつか作者について纏まって何か書いてみようという気持は無く、時たま新聞、雑誌の短文のなかでラムの名前をちょっとでも出せば、それだけで満足していた。雨垂れ式に活字になったものを全部寄せ集めても僅かであったのに、今度、思いがけなく沢山のラムをいちどきに書くことが出来て、嬉しい。
私は沢山のラムを書くことが出来たといったが、みんな福原麟太郎さんの『チャールズ・ラム伝』に出ている話で、そうでないものが混っているにしても落穂拾いに過ぎない。ラムの書簡集を読んでいて、これは面白い、是非とも取り上げようと意気込んで印を附ける。すると、ラム伝のなかにちゃんと入っているばかりか、長い手紙からいちばんおいしい部分を正確に選んで訳しておられる。当り前といえば当り前かも知れないが、さすがは福原さんだと感心しないわけにゆかない。こんな打明け話をしたくとも、もうこの世におられないのだからつまらない。妻を伴ってのロンドン訪問が決まった時は、既にお身体の具合がよくなかった。
福原さん独特の美しいペン字のお手紙を初めて頂戴したのは、昭和三十四年三月、拙著『ガンビア滞在記』をお送りしたのに対する礼状であったから、ふた昔を過ぎている。『チャールズ・ラム伝』が出版された時、これも今は亡き吉田健一さんの司会で著者を囲むラジオの座談会に加えて頂いたが、その日のことが懐しく思い出される。
あとになったが、わが国のラム支持者の先達である平田禿木、戸川秋骨の評伝、訳業の恩恵を受けたことをしるしておきたい。ここに岡倉由三郎を加えた三人が、若き日の福原さんをラムに結びつける上に力のあった方たちであった。ラム姉弟の生活を偲ぶ「ロンドン日記」が今まで『エリア随筆』に馴染の無かった読者へのささやかな橋渡しの役を果たしてくれるようにと願っている。
本書で引用されている文献
『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』は、庄野夫妻のロンドン滞在日記と折り重ねるようにして、チャールズ・ラムの『エリア随筆』や書簡集、福原麟太郎さんの『チャールズ・ラム伝』、福原さんの師匠格に当たる平田禿木や戸川秋骨に関わるエピソードなどが綴られている。
エリア随筆 / チャールズ・ラム
中学の英語の副読本にラム(Lamb)の文章が出ていて、変った名前の作家が英国にいると思った日から四十年余りたった。
心斎橋の丸善で生れて初めて買った洋書がエヴリマンズ・ライブラリーの『エリア随筆』で、それは今も私の本棚にある。
本書では、戸川秋骨訳の『エリア随筆』(岩波文庫版)が引用されている。

英国随筆百選
ロンドンの旅から帰って一年たった去年の夏まで、私の持っているラムの本といえばこの『エリア随筆』一冊きりで、あとは同じ頃に丸善で買ったエヴリマンズ・ライブラリーの、「クライスツ学寮の三十有五年前」ほか十二篇が入っている(いうまでもなくラムのがいちばん多い)『英国随筆百選』があるくらい。
チャールズ・ラム伝 / 福原麟太郎
これから「ロンドン日記」をお目にかけるついでに、その手紙や随筆のいくつかに触れ、福原さんの名著『チャールズ・ラム伝』に描かれた生涯のいろんな時期を思い起しながら、「その淋しい炉辺から消えていった、うかれもののやさしい人」を偲びたい。
ロンドンとその周辺 / ベデカ
その手前からサレー、ノーフォーク、アランデル、エセックスとストランドから分れてテムズの河岸へ向ってゆるやかに下って行く通りが続いているのは、それぞれサレー(ノーフォーク)伯、アランデル伯、エリザベス女王の寵臣であったエセックス伯の邸宅あとを示すものだとベデカの『ロンドンとその周辺』(1915年版)に書いてある。
ただし、これは私がロンドンの旅とラムについて書こうとしているのを知った友人が、古書通信によって手に入れた他の古い案内記や写真集とともに近頃送ってくれたものだから、井内さんと歩いているこの時は知らない。
福原麟太郎 / 英文学巡礼
エリザベス朝の抒情詩人エドマンド・スペンサーのもとの詩について福原さんは「英文学巡礼」(昭和26年)という随筆の中で触れておられる。
福原さんがこの随筆を書かれたのは、英国政府の招待で河上徹太郎、池島信平、吉田健一の三氏とともに二十四年ぶりにイギリスを訪問する二年前であった。
ロンドン・1930 / ウォード・ロック社
ベデカを読むと、インナー・テムプルとミドル・テムプルが共有するこのテムプル・チャーチ、あるいはセント・メアリイズ・チャーチが完成したのは1185年で(もう一冊のロンドン案内、ウォード・ロック社の『ロンドン・1930』によると、ホーボーンからテムズの岸を引越して来た騎士団ナイト・テムプラーズが建てたと書いてある)、そこへ初期英国式の聖歌隊席が附け足されたのは1240年というから、歴史は古い。
ウェークフィールドの牧師 / ゴールドスミス
井内さんがもしかりにお墓へ寄ってみますかと聞いてくれても、どう返事したか分らない。「ウェークフィールドの牧師」は好きな小説で、以前、中学生の長女に夏休みに読ませた思い出があるが、多分、もういいですといったに違いない。
福原麟太郎 / ヂョンソン大博士
五年がかりで『チャールズ・ラム伝』を書き上げた福原さんは、そのあといくらも間を置かずに今度は『ヂョンソン大博士』に取りかかられ、その連載は丸善から出ている「学燈」で二年間、続いた。
私がサミュエル・ヂョンソンという文学者に親しみを抱くようになったのは、福原さんの文章を通してであった。
桜庭信之 / 絵画と文学・ホガース論考
このあたりは十八世紀の頃にはいまのピカデリー・サーカスのようにロンドンの繁華街の中心で、伊達者が競って出入りするコーヒー店が多く、酒場あり浴場あり賭博場ありという歓楽の地であったらしい。
ホガースの「一日の四つの時」の第一回の「朝」はコヴェント・ガーデンの冬の朝の景色を描いたもので、この一組の中の傑作といわれていると『絵画と文学・ホガース論考』(昭和39年・研究社)の中で桜庭信之さんが紹介している。
福原麟太郎 / 大英博物館
福原さんの随筆に「大英博物館」(昭和三十五年)というのがあるが、それはリーディング・ルームと呼ばれるこの図書館で過した三十年前の思い出である。
文部省の在外研究員を命じられた福原さんがはじめてイングランド海峡を渡ったのは昭和四年の夏であるが、三日もいると以前からロンドンの市民であったような気持がしたそうだ。
椋鳥日記 / 小沼丹
私にハムプトン・コートへ行って、帰りにテムズの河下りをするように勧めたのは小沼丹だが、滞英半歳の回想記である『椋鳥日記』(昭和49年・河出書房新社)によると、彼はロンドンへ来て間の無い五月中旬と八月中旬にここを訪れている。
ただし、二度目は最初の河下りが忘れられなくて、それを主な目的にしてお嬢さんと二人で出かけた。
釣魚大全 / アイザック・ウォルトン
十七世紀のロンドンの呉服屋の旦那で、その素朴で穏やかな人柄を誰からも愛されたというアイザック・ウォルトンの『釣魚大全』は、ラムの愛読書の一つであった。
福原麟太郎 / 諸国の旅
私が随筆「昔の町にて」の収められた小型本を『諸国の旅』を著者から頂戴して二十年になる。ロンドンから帰ってからでも何度か読んでいる筈なのに、福原さんが貸寝椅子で昼近くまで眠り込まれたテムズ河岸の庭園地こそ、私と妻が芝生へ入って黒パンにレタスと玉子を挟んだサンドイッチと牛乳の昼食を楽しんだのと同じ公園であるらしいことについ最近まで気が附かなかったのは、迂闊といわなくてはいけない。
くさぐさの事物を詠じた詩集 / コールリッジ
この年の春、コールリッジの処女詩集『くさぐさの事物を詠じた詩集』がブリストルのコットル書店から出版され、その中にC・L・と署名したラムの詩が四つ、入っていた。
「そのころは、よく、そうして自分の詩集の中へひとの詩を入れてやったものであった」(『ラム伝』)。
十八ヶ国欧米の旅 / 庄野貞一
父が欧米の教育視察のために日本郵船香取丸で神戸港を出帆したのは昭和二年の四月十四日(私は父が校長をしていた帝塚山学院の小学部に入学したばかりであった)、最初の目的地であるロンドンに五月二十八日に到着した。
チャールズ・ラム / 平田禿木
平田禿木の愛情溢れる評伝『チャールズ・ラム』(昭和十三年・研究社)にもハズリットの思い出が記されている。
「ラム姉弟と夕方散歩して、クロード・ローレン風の空が空色から紫と金色に変るを見、脚もとに生えている菌を積んで、晩食のハヤシ・マトンへあしらったものである」。
講談社文芸文庫
『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』は、2011年12月9日、講談社文芸文庫として文庫化されている。
帯文
こよなく愛したチャールズ・ラムを巡る英国への旅。
薫り高き紀行文学、初の文庫化。

カバー紹介文(講談社文芸文庫)
英国の名文家として知られ、今もなお読み継がれているチャールズ・ラム(1775~1834)をこよなく愛した著者がロンドンを中心にラムゆかりの地を訪れた旅行記。
時代を超えた瞑想がラムへの深い想いを伝え、英国の食文化や店内の鮮やかな描写、華やかなる舞台、夫人とのなにげない散歩が我々を旅へと誘ってくれる。
豊かな時間の流れは滞在記を香り高い「紀行文学」へ。
解説「ロンドンの空の下で」(井内雄四郎)
講談社文芸文庫『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』では、井内雄四郎が解説を寄せている。
井内雄四郎は「早稲田の英文科の先生で、ロンドンへ来て二年目になる。奥さんと小学二年の男の子と幼稚園へ行っているお嬢さんの四人家族」として、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』の中に登場している。
ロンドンに不案内な庄野夫妻のために、友人の小沼丹が案内役として紹介してくれたのが、井内雄四郎だった。
本書にもあるように、一九八〇年(昭和五十五年)五月、当時勤務先の大学の在外研究員として家族と共にロンドン滞在中だった私は、同じ職場の先輩で作家の小沼丹さんの依頼で、庄野潤三さんご夫妻をロンドンとその近辺にご案内した。その十日間の楽しい思い出を新鮮に保つためにも、この拙文ではあえて庄野さんと呼ばせていただきたい。
作者はロンドン滞在中、朝となく、昼となく、夕となく、ごく若い頃から愛してやまなかった十九世紀イギリスの名エッセイスト、チャールズ・ラムの生まれ育ったテンプル地区とその周辺の有様を、克明に、愛情をこめて、詩情ゆたかに描き尽して行く。
そして前作で発揮された庄野さんののびやかさ、人なつっこさはこのロンドン滞在記でも発揮され、花の咲き乱れるテンプルの庭園で、白髪、長身の上品な老紳士と知り合って、チャールズ・ラム現代詩について語り合い、別れの告げる際、件の紳士が自分も詩を書く法律家で、サーの称号を持つと打ち明けるあたりは、さながらすぐれた短篇小説を読むような趣がある。
『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』では、作者がいわばロンドンの空気の中に丸ごと溶け込み、心ゆくまでロンドンという大都会の古びた湯船にゆったりと身を横たえ、ラムへの尽きぬ思いに浸っているということだろう。この滞在記にただよう一種沁み沁みとした哀感は、ここに由来する。
ここでは作者のロンドン滞在中の詳しい緻密な日記(それを可能にしたのは、夫人の毎日の天候や食事、買物、時間などについての綿密なノートの存在であったことはいうまでもない)を中核にして、ラムの『エリア随筆集』からの多くの美しい引用、ラム自身の言葉、彼をめぐるS・T・コールリッジをはじめとする幾多の著名な親しい友人たちへの手紙、庄野さんと親交の深い英文学者福原麟太郎氏、氏と現代イギリスの詩人エドマンド・ブランデンとのつながりや思い出……などが、作中の至る処でいつの間にやらすうっと挿入され、全体としてそれらが渾然と見事に溶けあい、織りなされて、さながらチャールズ・ラムを主題とする典雅で、薫り高い極上のタペストリーを生み出しているという点である。
いってみれば、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』の真の精神的主人公は薄幸の文人チャールズ・ラムであり、作品の主題は、作家庄野潤三における「チャールズ・ラムへの巡礼」、ないしは「チャールズ・ラムへの感情旅行」であったと規定して差し支えなかろう。
「ロンドンの空の下で」井内雄四郎
ロンドンへの旅(ノートより抜粋)庄野千壽子
講談社文芸文庫『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』には、庄野夫人である庄野千壽子さんによるノート(絵日記)が掲載されている。
3冊(180ページ)にわたる克明な記録と精緻なイラストは、庄野潤三氏を支えた。
本文のなかでも魅力的な食事の風景もまたこのノートのおかげである。
附け合わせ食材も記述されているのが楽しい。
最終ページは「……あっという間に飛び立った。四角な畑、それを縁どる林、赤いレンガが小さくなって、雲の中に入った。さよなら、ロンドン。1980年5月23日」で締めくくられている。