珈琲は暮らしの必需品。
家で飲んでも、職場で飲んでも、カフェで飲んでも、それはちょっと特別な時間になる。
そんな特別な時間を感じさせてくれる、珈琲エッセイ集。
書名:こぽこぽ、珈琲
著者:
発行:2017/10/20
出版社:河出書房新社
作品紹介
「こぽこぽ、珈琲」は、コーヒーに関するエッセイやコラムを集めたアンソロジーです。
収録作家は、阿川佐和子、泉麻人、井上ひさし、植草甚一、内田百閒、柏井壽、片岡義男、草森紳一、黒井千次、小島政二郎、佐野洋子、清水幾太郎、滝沢敬一、種村季弘、團伊玖磨、塚本邦雄、寺田寅彦、常盤新平、外山滋比古、永江朗、野呂邦暢、畑正憲、星野博美、湊かなえ、向田邦子、村上春樹、村松友視、森本哲郎、山口瞳、吉田健一、よしもとばななの計31名。
また、収録作品も、戦前のコーヒー事情から現代のカフェまで、幅広い時代のコーヒー模様をとらえることができる充実の内容になっています。
河出書房新社「おいしい文藝」シリーズの第11巻。
なれそめ
僕はコーヒーが好きです。
特別にコーヒー通というわけではないけれど、お好みのお店で買った新鮮な珈琲豆を直前にミルで挽いて、ハンドドリップで淹れたコーヒーを1日に何度か飲むといった程度のコーヒー好き。
目覚めのときも、ひとやすみのときも、一日の終わりのときもコーヒー。
それから、僕は、エッセイが好きです。
エッセイというオシャレなものとか、随筆なんていう高尚なものとかでなくても、雑誌の隙間を埋めるように書かれた囲みの中の小さなコラムがあれば、それが一番好き。
本にしたときに2ページとか3ページくらいで終わってしまうくらいの短いやつがいちばん読みやすい。
そして、僕はアンソロジーが好きです。
いろいろな職業の、いろいろな世代の人が書いた雑文だかコラムだか分からないような文章をひとまとめにした本があれば、1日幸せ。
この本は、そんな僕にぴったりの珈琲アンソロジーです。
本の壺
一口に珈琲エッセイと言っても、実にいろいろなエッセイがあるものです。
珈琲論を語る
コーヒー好きの人にありがちなのが、己の珈琲哲学を頑なに譲らず、己の珈琲論を頑として主張する珈琲道の達人。
「コーヒーを飲まないと僕の一日は始まらない」という片岡義男さんは、金属フィルターを使ったハンドドリップコーヒーを愛飲している片岡さんにとって、コーヒーは「非日常に向けて意識を開放してくれるもの」だと言います。
それは「非日常への移行や浮揚の体験の蓄積が、小説へのきっかけを生みだしてくれる」ものだから。
片岡さんは「一杯のコーヒーとは、それを淹れる時間と手順、そして出来上がったコーヒーの香りだ、という事実だ」と考えていて、コーヒーの香りは部屋中に放たれることによって、非日常への移行が始まるのだそうです。
寺田寅彦は「コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ている」と言います。
それは「それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があ」り、「そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術である」ということなんだそうです。
永江朗さんは「コーヒーをいれていると、気分が落ち着く」と綴ります。
「豆を挽き、お湯を沸かし、コーヒーカップを用意し、ゆっくりとお湯を注ぐ。この一連の動作が、ささくれ立った気分を鎮めてくれる」のであり、こうした「至福の儀式」は「バロック音楽」のように「心を落ち着かせてくれる効果がある」と考えているんですね。
一杯のコーヒーから導かれる珈琲論、コーヒーはまさしく人を魅了する飲みものだということが言えそうですね。
喫茶店を語る
コーヒーを飲む場所と言って、真っ先に思いつくのが喫茶店です。
映画雑誌を作る出版社で働いていた向田邦子さんが、初めてテレビの仕事に誘われたのは、「松竹本社のそばにある新しく出来た喫茶店」でした。
「いやに分厚くて重たいプラスチックのコーヒーカップは、半透明の白地にオレンジ色の花が描いてあり」、「コーヒーは、薄い、いまでいうアメリカンだった」そうです。
アルバイト感覚で始めたばかりの当時、「どんなものを何本書いたかも記憶に」ないそうですが、「あの日、プラスチックのカップで飲んだ薄いコーヒーの味」だけは覚えていると、向田さんは述懐しています。
戸越銀座商店街にある喫茶店「シャルマン」で初めてウィンナーコーヒーなるものを味わった思い出を綴るのは、星野博美さん。
2008年に「シャルマン」は閉店しましたが、「しかし思い出は消えない。世界のどこかでウィンナーコーヒーを飲むたび、私はシャルマンを思い出し、くすっと笑うだろう」と結んでいます。
内田百閒が綴るのは歴史的名店「可否茶館」の思い出。
村松友視さんは「カフェ・ド・ランブル」、山口瞳さんは「ロジーナ茶房」、常盤新平さんは「喫茶エリカ」、柏井壽さんは「イノダコーヒ」を紹介。
そういえば、池波正太郎さんの「散歩のとき何か食べたくなって」の中でも「イノダコーヒ」が登場していて、「京都の朝はイノダから始まる」なんて言葉が登場していました。
おかしかったのは井上ひさしさんで、テレビ局近くの喫茶店を職場代わりの根城にすると、大抵その店は13週目あたりでつぶれてしまうんだそうです。
田村町辺りの喫茶店を「5年間で少なくとも5軒はつぶした」とありますからすごい(笑)
テレビ黎明期から全盛期にかけての夢みたいなお話です。
それにしても、多くの人たちの心に残る喫茶店という存在の大きさって、やっぱり素晴らしいですね。
世界の珈琲を語る
本書の中では、世界各国の珈琲についても語られています。
畑正憲さんが綴るのは、ラップランドで飲んだコーヒーの話。
ラップランドの人々は「ボールから氷砂糖をつまみあげて口に入れ、すかさずコーヒーを含んだ。口の中で、コーヒーと砂糖を混ぜる」んだそうです。
ブラック党の畑さんも彼らの真似をしてみたところ、その味は「オツなものだった」と回想しています。
フランスの小説で、朝のコーヒーをベッドの中で飲む場面がしばしば登場しますが、あれは「新しく入れるのではなく、きのう使ったコーヒーの滓をためて置いて、それをもう一度煮出して、それにたっぷり牛乳を入れたものだと聞いている」と書いたのは小島政次郎。
ローマのパンテオンの近くの店の「エスプレッソは考えられないくらいおいしかった。生まれてからあれほどおいしいエスプレッソを飲んだことはない」と言うよしもとばななさんは、「エスプレッソは一日のいろいろな時間に一瞬の句読点をうつためだけにある」と素晴らしい一文を残しています。
塚本邦雄も「むやみにエスプレッソが好きで」「一年おきくらいにイタリア遊行を試みるのも、実のところは、気障な言い方をするなら、エスプレッソを飲みに行く」んだそうです。
村上春樹さんは「冬のオーストリアとかドイツとか飲むラム入りコーヒーはすごくおいしい」と綴っています。
「熱い熱いコーヒーの上に大盛りの白いクリームがのっていて、ラムの香りがツーンと鼻をつく。そしてクリームとコーヒーとラムの香りが一体となってある種の焦げくささのようなものを形成する」なんていう文章を読んでいると、今すぐドイツに行って熱いラム入りコーヒーを飲みたくなってしまいますね。
読書感想
本書を読んだ感想は「一日幸せでした」っていうことです。
できるなら永遠に珈琲エッセイとか珈琲コラムみたいなものばかりを読んでいたい。
そして、本書を読みながら、いったい一日のうちに何杯のコーヒーを飲んだことか。
お気に入りの珈琲豆をグラインドして(片岡義男さんが言ってた)、ペーパーフィルターを使ってハンドドリップして淹れたブラックコーヒーが僕のスタンダードですが、砂糖を入れたコーヒーが美味しかったとあれば、ちょっと砂糖を入れてみたり、エスプレッソが美味しかったとあれば、10年前にわざわざスターバックスコーヒーで買ってきたデロンギのエスプレッソマシーンを使って熱々のエスプレッソを入れてみたり。
コーヒーって本当に人を幸せにしてくれる飲みものだなと思いました。
そして、コーヒーが幸せな飲みものだと思えるのは、やっぱり平和な世の中があってこそ。
戦時中や戦後に書かれたエッセイを読むと、コーヒーを飲むことがいかに大変なことだったかという記録が残されていて、今のこの平和を失ってはいけないと、強く感じました。
一杯の幸せなコーヒーを飲み続けるためにも。
ということで、コーヒー好きな方に、もれなくおすすめです。
まとめ
時代を超えた珈琲エッセイ集。
美味しいコーヒーを飲みながら読むべし。
読んでいるうちに、絶対においしいコーヒーが飲みたくなります。