庄野潤三の世界

庄野潤三の代表作「ザボンの花」昭和から平成まで全書籍をコンプリート

多くの名作を残した庄野潤三の作品の中から、代表作をただ一作品だけ選ぶということは、非常に難しい作業だ。

1953年に最初の作品集『愛撫』を発表してから、存命中では最後の書籍となった『ワシントンのうた』(2007年)までの活動時期は、実に半世紀以上(54年間)に及ぶ。

膨大な著作を持つ大作家の作品から、たった一冊の本を選び出すことなんて到底できるものではない。

ただし、庄野文学作品の中から数点の代表作を選ぶとしたなら、その時には必ず選ばれるべき作品というのはあるだろう。

『ザボンの花』は、庄野潤三の代表作の一つとして、決して忘れることのできない名作である。

庄野潤三「ザボンの花」平凡な暮らしは永遠ではないからこそ愛おしい
庄野潤三「ザボンの花」平凡な暮らしは永遠ではないからこそ愛おしい庄野潤三さんの「ザボンの花」を読みました。 庄野潤三の家族小説は、ここから始まったんですよね。 書名:ザボンの花 著者...

近代生活社「ザボンの花」昭和31年

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「ザボンの花」は、昭和30年4月から9月まで「日本経済新聞」に152回に渡って連載された。

庄野さんは、この年(昭和30年)1月に第32回芥川賞を受賞したばかりで、「ザボンの花」は、庄野さんにとって初めての新聞連載小説であり、初めての長編小説でもあった。

あとがきの中で、庄野さんは、英国の作家ヒュウ・ウォルポールの代表作「ジェレミイとハムレット」という長篇を引き合いに出して、「『ザボンの花』を書く時、私はたとえばこの『ジェレミイとハムレット』でウォルポールが英国の家庭の、部屋の中とか廊下などの空気を私たちに感じさせてくれたような具合に、私も自分の書くことが出来る範囲で、ある時代のある生活を表現してみようと思った」と綴っている。

書籍の帯文には「芥川賞作家長編第一作」「現代文学中他に類を見ない、透明な詩情と哀感の文学」「日本経済新聞に連載されるや読者を感動の嵐に捲きこんだ名作長編小説」とある。

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帯の推薦文を書いているのは、河盛好蔵と井上靖。

河盛好蔵は「庄野潤三氏には、戦後の作家がみなどこかへ置き忘れてしまった文学の核心になるべき純朴さがある。物ごとにこせこせしない大人の風格がある。すくすくと大樹に成長すべき豊かな樹液といったものを覚えている」と書き、井上靖は「庄野潤三氏は詩人である。氏が詩を書かれたかどうかは私は知らない。併し、氏の作品の尽くについて語る時、梶井基次郎の作品に対すると同様に感受性の純粋化という言葉を使っていいのではないかと思う。氏の作品の持つ澄明度はさしずめそうした言葉を使う以外ないと思う」と書いている。

著者の庄野さん自身、「人が読んでどの程度に興味のあるものであるかどうかは深く問わず、ただ私が一生のうちに書くとすれば一番いいと思われる時期にこれを書いた。私は自分にこの仕事をやらせてくれた日本経済新聞に感謝することを忘れてはならない」とあとがきに記しており、手応えのある作品だったことが伝わってくる。

「ザボンの花」は、新聞連載が終了した翌年の昭和31年7月に刊行されるが、版元である近代生活社の倒産によって、ほどなく絶版となってしまう。

印税さえ手にすることができず、庄野さんにとっては苦い思い出の残る作品となってしまった。

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あかね書房「ザボンの花」昭和46年

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出版元の解散という憂き目に遭った「ザボンの花」だったが、新聞連載時に好評を得ていたこともあり、第一章にあたる「ひばりの子」が中学校国語教科書に掲載されるなど、「ザボンの花」は根強い人気を維持していたらしい。

中学校国語教科書への掲載は、大修館書店(昭和33年~40年)三省堂(昭和35年~43年)、大日本図書(昭和36年~40年)、大阪書籍(昭和36年~43年)、学校図書(昭和41年~43年)、光村図書出版(昭和47年~55年)など、昭和30年代から50年代にかけて、各社に渡った。

ちなみに「教科書名短篇―家族の時間」(中公文庫)に収録されている「ひばりの子」が、「ザボンの花」の第一章に当たる部分の抜粋となる。

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こうした人気を背景に「ザボンの花」があかね書房「少年少女日本文学」シリーズから刊行されたのは、昭和46年(1971年)のことである。

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巻末の作品解説に当たる「人と作品」を担当した十和田操は、近代生活社版のあとがきを全文引用して「庄野さんほど、誠実まっとうで心あたたかな信頼のできる作家は、めずらしいと思います」「どんな作品がいいだろうかと、いろいろ問題の多いこんにちの新聞小説を、庄野潤三この芥川賞作家に書いてもらおうとくわだてた新聞(日本経済新聞)も、また心あたたかで、えらいものだと思います」などと綴っている。

また、この十和田操による「庄野さんの印象」は少年少女向けに書かれたものとは言え、昭和40年代当時の庄野さんを知るうえで、非常に精緻なものとなっていて注目される(庄野少年が綴り方の時間に書いた「折れたベーブルースの足」という作文が、大阪の大新聞に掲載されたエピソードなども興味深い)。

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角川文庫「ザボンの花」昭和47年

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あかね書房が「ザボンの花」を復刻した翌年の昭和47年(1972年)12月30日、「ザボンの花」は角川文庫から刊行される。

カバー紹介文には「夫妻と子供3人が織りなす家庭生活を爽やかに描き、『ザボンの花の咲くころは、空にはきれいな天の川・・・』の童謡の余韻がひびく詩情あふれる庄野文学の名作長篇」と記された。

解説は、大阪朝日放送時代からの盟友であり、芥川賞作家でもある阪田寛夫。

阪田さんは「同じ年に庄野さんは『プールサイド小景』で芥川賞を受けたのだけれども、この明るい家族小説の方はあまり問題にされなかった」「だが『ザボンの花』が、あとに続く作者の中年期の仕事の大事な起点になっていることを、今はもう認めてもいいのではないか」と、一連の家族小説を発表している庄野さんにとって、『ザボンの花』が原点的な作品であることを指摘している。

昭和47年当時といえば「夕べの雲(昭和40年)」「丘の明り(昭和42年)」「小えびの群れ(昭和45年)」「絵合せ(昭和46年)」「明夫と良二(昭和47年)」などといった、和子・明夫・良二の3人の子どもたちが登場する一連の家族小説が発表されていた頃であり、原点を「ザボンの花」に求める阪田さんの指摘は、実にまっとうなものだった。

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福武文庫「ザボンの花」平成3年

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時代は変わって平成3年(1991年)、庄野さんの「ザボンの花」は、福武書店「福武文庫」から出版される。

カバーの紹介文を引用すると「東京郊外に移り住んだ家族は、四年生の男の子を頭に二年生の女の子、そして幼稚園前の男の子のいる賑やかな5人家族。奔放な3人の子供達を中心にに若々しい父母、近隣の人々、夕方になるとなぜか吠え出す愛犬ベルらの優しく温かな交流子供達の華やぎと移りゆく自然の美しさの中に生の原風景を紡ぎ出す庄野文学の記念碑的長篇」となっている。

解説は、角川文庫版と同じく阪田寛夫。

他の文庫本や庄野潤三全集の解説を書くために、この作品を少なくとも10回は読んでいるはずだと言う阪田寛夫は「今度読み返して、こんなことが書いてある、少しも知らないでいた、と驚いた箇所がいくつもあった」「好きな交響曲や室内楽曲を何度も繰返して聴いて、そのつど新しい喜びを貰ったり発見を楽しんだりするように、私はこの作品から喜びや慰めを、繰返し貰ってきた」と綴った。

1980年代の庄野さんは「陽気なクラウン・オフィス・ロウ(1984年)」や「サヴォイ・オペラ(1986年)」などの大作を完成させた後、病期療養を隔てて、フーちゃん3部作と呼ばれるシリーズの最初の作品である「エイヴォン記(1989年)」を発表している。

つまり、福武文庫版「ザボンの花」が刊行されたのは、1990年以降に発表される晩年の家族小説シリーズの萌芽が登場していた時期ということになり、この時期に原点とも呼ぶべき作品が、世に再登場しているのはおもしろい。

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阪田さんは「エイヴォン記」に登場する「デエモン・ラニヨンの短編集」が、実は「ザボンの花」で既に登場していたことを発見した驚きを率直に綴っているが、軸足のブレることのなかった庄野さんらしいエピソードだと思う。

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みすず書房「ザボンの花」平成18年

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さらに時代は変わって平成18年(2006年)、みすず書房の大人の本棚シリーズから「ザボンの花」が刊行される。

帯文では「麦畑に囲まれた一軒家で暮す五人と一匹。生活の情景、そこにある哀歓をのびやかに綴る、静かな明るさに満ちた長編小説。『夕べの雲』の前編、庄野文学の代表作」と記された。

1955年の日本経済新聞連載から実に半世紀以上の時間を経て世に再登場した、まさしく「庄野文学の代表作」と言っていい。

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庄野さんの書いたあとがきを引用したい。

はじめての新聞小説で、どんなふうに書いていいか、分らない。文芸誌に書くのと同じように書いた。新聞ということを意識しないで、自分の好きなようにのびのびと書かせてもらった。大阪帝塚山の生家には、大病をしたあとの母がいて、日本経済新聞をとって「ザボンの花」を読んでくれ、切抜を作ってくれた。この切抜が単行本にするときに役立った。父に先立たれて淋しくなり、戦後に三十七歳という年で亡くなった長兄の妻と子供と一緒に暮していた。私はこの母に東京に引越した私たち一家がどんなふうに暮しているかを知らせるつもりで書いた。それが、「ザボンの花」であったといっていいだろう。(庄野潤三「あとがき」)

この時、庄野さんは85歳で、2009年に88歳で亡くなる、ちょうど3年前のことだ。

85歳になった息子が、とうの昔に亡くなった母を偲び、「ザボンの花」は「この母に東京に引越した私たち一家がどんなふうに暮しているかを知らせるつもりで書いた」と懐かしく思い出している。

その言葉を読むことができるという意味で、みすず書房「大人の本棚」版の「ザボンの花」は、非常に意義のある本だと思う。

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講談社文芸文庫「ザボンの花」平成26年

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そして、現在でも入手可能となっているのが、平成26年(2014年)に刊行された、講談社文芸文庫版「ザボンの花」である。

帯文は「家庭や生活のいとおしさ、『夕べの雲』へと続く庄野文学の魅力の長篇」

著者である庄野さんは、既に2009年に逝去されているので、富岡幸一郎による解説も、庄野文学を総括する形で書かれているが、「『ザボンの花』に満ち溢れる言葉は、何かを指し示すことでその物を描いているのではなく、言葉自体がその物と化している」などの考察は、庄野文学の本質を探る上で興味深い。

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『ザボンの花』から庄野潤三独特の家庭小説が始まる、というのはカバーの紹介文で、「生活を愛し育んでいく本質と主張を、完成度の高い文学作品にしあげている」と続いている。

原点という意味においても、また、ひとつの文学作品としての完成度としても、『ザボンの花』は間違いなく庄野潤三の代表作である。

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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。