庄野潤三の世界

庄野潤三「世をへだてて」64歳の冬に脳内出血で入院した際の闘病記

庄野潤三「世をへだてて」あらすじと考察

ここでは、庄野潤三の長篇随筆「世をへだてて」について紹介しています。

多くの著作を遺した庄野さんにとって、唯一の闘病記です。

概要

「世をへだてて」は、庄野潤三の長編随筆であり、庄野潤三唯一の闘病記である。

初出誌は「文学界」で、1986年(昭和61年)7月号から1987(昭和62年)年8月号まで隔月で連載された。

単行本は、1987年(昭和62年)11月1日、文藝春秋から刊行されている。

装丁は川島羊三。

帯には「突然襲った左半身麻痺—/脳内出血の大病を克服してここに綴る/生と死をさまよう中での幻想と幻覚/そして、よみがえる生命への歓びと新たな観想」とある。

「世をへだてて」という題名は、アーサー・ウェーリーの中国古詩英訳をもととした日本語訳である「中国古詩鈔」の中にある「谷間をへだてて」(作者不詳)に因んで、単行本化の際に付けられた。

闘病記ではあるが、福原麟太郎『命なりけり』をはじめ、チャールズ・ラム『エリア随筆』、トマス・ヒューズ『トム・ブラウンの学校生活』など、庄野さんが影響を受けた文学作品の話が多く引用・紹介されている。

2021年(令和3年)2月12日、生誕100年記念として、講談社文芸文庫において文庫化された。

初出誌一覧

題名 初出誌
夏の重荷 「文学界」1986年7月号
「文学界」1986年9月号
北風と靴 「文学界」1986年12月号
大部屋の人たち 「文学界」1987年2月号
Dデイ 「文学界」1987年4月号
作業療法室 「文学界」1987年6月号
同室の人 「文学界」1987年8月号

執筆の背景

1985年(昭和60年)11月6日、庄野さんは脳内出血により、川崎市内の高津中央総合病院へ緊急入院する。

12月2日には、手術後のリハビリを目的として、虎ノ門病院梶ヶ谷分院へ転院した後、12月27日、無事に退院を果たす。

このとき、庄野さんは64歳であった。

以降、この大病の経験は、小説家としての庄野さんにも大きな影響を与えることになる。

単行本あとがきの中で庄野さんは「脳内出血を起して入院した私が、退院して自宅療養を始めると、自分が病気で入院した間のことや退院してからのことを何くれとなく書いてみたいと思うようになった」と作品執筆の動機を綴っている。

また、庄野さんが敬愛する英文学者の福原麟太郎は、大病から復帰した後に「秋来ぬと」という随筆を発表しているが、この随筆は「世をへだてて」の執筆にも大きな影響を与えた。

あらすじ

夏の重荷

脳内出血での緊急入院から、そろそろ一年という頃、入院中の様子を書いておこうと考えた庄野さんが最初に思い出したのが、福原麟太郎さんの「秋来ぬと」という随筆だった。

六十の坂を越したところで心臓病を患い、大病を乗り越えて「チャールズ・ラム伝」などの代表作を成し遂げた福原さんに励まされながら、庄野さんも自身の病気を乗り越えて仕事に取り組んでいくことを決意する。

庄野さんには二本の杖がある。

病院でのリハビリに使用していた普段使いの杖と、三人の子どもたちから退院祝いとして贈られた「よそ行きのステッキ」だ。

普段使いの杖には、「3F庄野」と書かれた、絆創膏のような布切れが貼られているが、「3F」とは庄野さんが入院していた病院の三階にある脳外科病棟のことである。

北風と鞄

脳内出血で緊急入院した庄野さんについて、病院側は手術を受けるかどうか、家族の側で決めてほしいと求めてきた。

庄野さんの妻と三人の子どもたちは、庄野さんの年齢などを考慮して、手術をしないで内科的な治療を進めていくことを希望する。

大部屋の人たち

入院中の庄野さんを見舞う家族に、励ましの言葉をかけてくれたのは、庄野さんの同じように入院中の大部屋の人たちだった。

胃潰瘍で入院している野宮さんは大型トラックの運転手をしていた人で、長男は高校を中途退学して、今は鮨屋の見習いとして働いている。

「オレは教育に失敗したけど。でも、もう真面目にやるだろうね」と、野宮さんは言う。

Dデイ

阪田寛夫さんのアドバイスを受けて、リハビリのしっかりとした病院へ転院することを決めた庄野家の人々は、入院中の病院側の許可を得るための準備を進める。

決行日は、ノルマンジー上陸の「Dデイ」だ。

そんな作戦が進められる中、次男のお嫁さんであるミサヲちゃんのおめでたが発覚する。

作業療法室

転院後の病院で、庄野さんは厳しいリハビリと向き合っていた。

与えられた車椅子に乗ってみても、車椅子は自分の思った方向へと動いてはくれない。

庄野さんは、リハビリ活動の中で、同じ脳内出血で入院している、アメリカ人のヘンリーさんと知り合いになり、互いに交流を深めていく。

同室の人

転院先の病院では、楽しい人たちと一緒の部屋になった。

浅草の紙問屋で育ったという吉岡さんは、現在は、池袋で紙屋さんをしている。

吉岡さんのところには、下町風の奥さんがやって来ていて、吉岡さんは、この奥さんが買ってきた菓子パンを、夕食後に食べるのを楽しみにしていた。

あとがき(抜粋)

脳内出血を起して入院した私が、退院して自宅療養を始めると、自分が病気で入院した間のことや退院してからのことを何くれとなく書いてみたいと思うようになった。そのとき私の心に最も親しく、身近に感じられたのが、以前読んだ英文学者の福原麟太郎さんの「秋来ぬと」という随筆であった。

福原さんは大病をなさったあと、養生に努め、『チャールズ・ラム伝』を始めとする一生の大きなお仕事に次々と取りかかられた。それも必死になってしがみついてというのではなくて、悠々としてといいたいようなお仕事ぶりであった。とても福原さんを真似るわけにはゆかないとして、そういう方が居られたということを学んで、これからの生涯を生きてゆく上でのお手本としたいと願わずにはいられない。

文学界から隔月連載で長い随筆を書く機会を与えられたとき、福原さんの「秋来ぬと」がどのように書かれたかを詳しく辿ってみることによって一回目の「夏の重荷」を書いたのは、そういう気持ちからであった。

丁度その頃、森亮さんの東洋文庫『白居易詩鈔—附・中国古詩鈔』(平凡社刊)を手に取って頁を繰っていたら、アーサー・ウェーリーの中国古詩英訳をもととした日本語訳である「中国古詩鈔」のなかに、「谷間をへだてて」という作者不詳の一篇があるのを知り、そこで、恰も谷間をへだてるようにして今は向う側の国にいらっしゃる福原さんに対して感謝を述べるといった心持をこめて、通しの題名を「世をへだてて」としてみたのである。

講談社文芸文庫

「世をへだてて」は、2021年、「著者潤三生誕100年記念刊行」として講談社文芸文庫から、単行本の刊行から30年以上の時を経て初めて文庫化された。

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帯文(講談社文芸文庫)

大病からの帰還、家族の団結、命のよろこびを綴る闘病記。

庄野潤三「世をへだてて」(講談社文芸文庫版)著者生誕00年記念の帯がついている庄野潤三「世をへだてて」(講談社文芸文庫版)著者生誕100年記念の帯がついている

カバー紹介文(講談社文芸文庫)

六十四歳の晩秋のある日、いつものように散歩に出かけようとして妻に止められ、そのまま緊急入院。突然襲った脳内出血で、作家は生死をさまよう。父の一大事に力を合わせる家族、励ましを得た文学作品、医師や同室の人々を見つめる、ゆるがぬ視線。病を経て知る生きるよろこびを明るくユーモラスに描く、著者の転換期を示す闘病記。著者生誕100年記念刊行。

今村夏子「父の散歩」

「あとがき」を含めて、単行本の内容を収録しているほか、「著者に代わって読者へ」を、庄野さんの長女である今村夏子さんが寄せている。

長女・夏子さんから庄野夫妻へ届く手紙は、「インド綿の服」のほか、庄野さんの晩年の作品にも数多く登場しており、多くの読者の人気を得ているところだが、文筆家ではない夏子さんが、このような形で原稿を寄せるのは珍しい。

島田潤一郎「山の上のまわり」

文庫版「世をへだてて」には、夏葉社の代表である島田潤一郎が解説を書いている。

夏葉社は「庄野潤三の本 山の上の家」と「親子の時間 庄野潤三小説選集」を刊行している出版社であり、島田代表の庄野潤三に対する深い愛情がしみじみと伝わってくる、良い解説だ。

年譜

講談社文芸文庫には、著者のまとまった「年譜」が掲載されている。

ほどほどに詳しくて使いやすい「年譜」である。

庄野潤三「世をへだてて」(講談社文芸文庫版)庄野潤三「世をへだてて」(講談社文芸文庫版)
ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。