庄野潤三「山の上に憩いあり」読了。
サブタイトルには「都築ヶ岡年中行事」とある。
小説ではない。
同じ多摩丘陵の住民である河上徹太郎夫妻と庄野一家との交流を描いた回想録である。
庄野さんが河上徹太郎と初めて会ったのは、昭和30年3月、場所は芝公園のグラウンドだった。
文士チームと文芸春秋チームとの野球の試合に駆り出された庄野さんは、ここで、主将の河上さんと初めて挨拶を交わした。
庄野さんと河上さんとの交流が本格的に始まったのは、昭和36年、庄野さんが多摩丘陵の丘の上に家を建ててからのことである。
その年の4月29日に催された庄野家の家開きに、隣村の住民である河上徹太郎も参加したのだ。
家開きの会に集まったのは、井伏鱒二、小沼丹、横田瑞穂、村上菊一郎、そして、河上徹太郎というメンバーで、「そろそろ日が傾きかけた頃、縁側の硝子障子を開け放したら、何も木の植わっていない庭に目をやった河上さんが「なんだ。『禿山の一夜』じゃないか」と叫んだ」というエピソードが印象的だった。
その後、庄野さんは千壽子夫人とともに河上邸を訪ねるようになり、河上さんもアヤ夫人を伴って、庄野宅を訪れるようになる。
とりわけ、庄野一家が正月に河上邸を訪ねることと、河上夫妻がクリスマスに庄野邸を訪れる習慣は、両家の年中行事となって長く続いた。
サブタイトルの「都築ヶ岡年中行事」というのは、つまり、庄野家と河上夫妻との交流の習慣のことを示したものということになる。
庄野さんは古い日記を引用しながら、河上邸を訪ねたときの様子や、河上夫妻を生田に招いた時の様子を、晩餐のメニューや余興の内容、河上さんの台詞まで、しみじみと回想している。
この長く続いた年中行事の様子を読みながら、つくづくと感じたことは、庄野さんの書くものは、どこまでも庄野家の家族の物語だということである。
河上さんが初めてアヤ夫人を伴って生田を訪れたお月見の夜、中学三年の長女は千壽子夫人と一緒に「逝きしユーリア」と「アンポンの船」を歌い、小学五年の長男と一年の次男は、大きな「松のたんこぶ」を持って現れて、夫妻の肩を叩いてあげた。
ここから回想は、子どもたちの成長とともに時間を経過していく。
中学三年だった長女は、やがて短大を卒業して就職し、結婚をして母親となる。
正月に庄野一家は柿生の河上邸を訪ね、クリスマスには河上夫妻を生田の庄野宅に招く。
毎年、繰り返される年中行事の中で、庄野さんの子どもたちだけは確実に成長をしていく。
その年中行事の移り変わりの様子を思い浮べながら、家族の移り変りの様子を思い浮べてしまうのは、決して僕だけではないだろう。
これは紛れもなく、庄野さんによる河上徹太郎さんへの追悼文である。
追悼文の中に、家族の成長の様子が描かれている。
それが、庄野さんの追悼文というものなのだろう。
長女が書いた「てっちゃんメモ」
河上さんは酔うと必ず「おい! たつ(龍也)! かず(和也)! なんだ面白い顔をして」などと言って、二人が返事をすると「しっかりしろ」とからかった。
あるときは、庄野さんに向かって「おい! 庄野」と突然怒鳴り、「お互いにいいものを書きましょう」と言いながら、握手をしたこともあった(この場面が楽しい)。
一方で、庄野家の子どもたちも、河上さんを「てっちゃん」と呼んで、まるで親戚のおじさんとでも話しているかのような親しみを感じさせる。
だからこそ、この随想を構成する上で、河上さんの随筆や庄野さんの日記と同じくらい、長女の書いた「てっちゃんメモ」が重要な役割を果たしているのだろう。
河上さんが亡くなったとき、とっくに社会人となっている次男が「昨夜はひと晩中、てっちゃんの夢をみていた」と話す場面は、殊に切なかった。
庄野一家と河上徹太郎夫妻との交流を振り返る回想記ではあるが、河上さんの随筆がたくさん引用されていて、河上さんの評伝的な要素も織り込まれている。
短いながらも「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」のような深い味わいのある随想だと思った。
書名:『山の上に憩いあり』所収「山の上に憩いあり」
著者:庄野潤三
発行:1984/11/5
出版社:新潮社