日本文学の世界

太宰治「トカトントン」敗戦の中で人生のリセットボタンの音が聞こえる

太宰治「トカトントン」あらすじと感想と考察

太宰治「トカトントン」読了。

本作「トカトントン」は、1947年(昭和22年)1月『群像』に発表された短編小説である。

この年、著者は38歳だった。

作品集では、1947年(昭和22年)8月、筑摩書房から刊行された『ヴィヨンの妻』に収録されている。

遠くで何かを打つ金槌の「トカトントン」

毎日新聞に連載中の戦争文学エッセイ「名著を探訪」で、先週から採りあげられているので、久しぶりに『ヴィヨンの妻』(新潮文庫)を買ってきた。

表題の「トカトントン」というのは、金槌でモノを叩くときの擬音のこと。

終戦時、軍隊にいた主人公の青年は、集団自決を呼びかける上官の命に従って、命を捨てる悲痛な覚悟を持つが、遠くで何かを打つ金槌の「トカトントン」という音を聞いた瞬間、何もかもがどうでもよくなってしまう。

その後、復員した青年は、小説を書いたり、郵便局員として働いたり、恋をしたり、労働運動に感動したりするものの、いざ、本気で何かに取り組もうとすると、あの「トカトントン」という音が、どこからともなく聞こえてきて、何もかもがどうでもよくなってしまう。

「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」案外の名答だと思いました。そうして、ふっと私は、闇屋になろうかしらと思いました。しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました。(太宰治「トカトントン」)

結局、青年は、何にも熱中することができず、無為に日々を過ごすこととなり、そのことに苦悩して、敬愛する同郷の作家に宛てて手紙を書く。

この小説は、青年から作家に宛てて書かれた手紙の形で書かれた、いわゆる書簡形式の小説である。

青年の長い手紙の後ろに、作家から青年に宛てて書かれた、短い返信がある。

拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指指すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。(太宰治「トカトントン」)

作家は、青年の幻聴を「現実から逃げているだけだ」「勇気を持て」と励まして、小説は終わっている。

「トカトントン」は人生のリセットボタンの音だ

まず、気になるのは、最後に置かれた作家からの返信で、これは、いかにも気取った、上から目線の返信である。

青年の苦悩にまったく寄り添っていないばかりか、青年を脅かす「トカトントン」という幻聴の原因を、青年に勇気がないからだと、簡単に切り捨てている。

だが、「トカトントン」は、果たして本当に、青年の現実逃避を現す幻聴なのだろうか。

最初に「トカトントン」を聞いたとき、それは、まさしく日本の敗戦の瞬間だった。

玉音放送でポツダム宣言の受託を知り、「政治は負けても軍人は負けない」と、上官が集団自決を呼びかけ、青年も死を決意したときに、どこか遠いところから聞こえてきた金槌の音。

その音を聞いて、青年は何もかもがどうでもよくなってしまい、徹底抗戦とか集団自決とかいうことさえ煩わしくなってしまう。

これは、つまり、戦争の(あるいは戦時社会の)リセットボタンの音だったのだ。

日本国民が生活のすべてを賭けて戦ってきた戦争が、(青年にとっては)「トカトントン」という愉快にも聞こえる音ひとつで、まったくの無となってしまった。

この敗戦体験は、その後も、青年を脅かし続ける。

闇屋になって一万円を儲けたところで、世の中はまたリセットされてしまうかもしれない。

好きな女性と恋愛をしたところで、世の中はまたリセットされてしまうかもしれない。

「トカトントン」は現実逃避ではなく、むしろ、敗戦という現実を受容したが故のあきらめの擬音なのだ。

そう考えると、最後の作家の返信が、いよいよ滑稽で無責任なものに思えてくる。

「真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです」という言葉は、勝手に戦争を始めて、国民生活をどん底へと陥れた末に敗戦を受け入れた、日本という国家の弁解にさえ聞こえてくる。

戦後の混乱の中、戦争から投げ捨てられた青年は、「トカトントン」という幻聴から逃げ切ることができたのだろうか。

作品名:トカトントン(『ヴィヨンの妻』所収)
著者:太宰治
発行:昭和25年12月20日
出版社:新潮文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。