日本文学の世界

高見順「敗戦日記」東京と戦争と日本人を観察し続けた鎌倉文士の記録

高見順「敗戦日記」あらすじと感想と考察

終戦記念日が近いので、戦争日記を読み返しています。

当時の文士も戦争中は「あちこちのすずさん」の一人だったわけで、小説以上に戦時中の庶民の暮らしぶりを知ることができるから。

鎌倉文士のひとり、高見順が書いた「敗戦日記」は文学的価値の高い日記です。

書名:敗戦日記
著者:高見順
発行:1991/8/10
出版社:文春文庫

作品紹介

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「敗戦日記」は、鎌倉文士の一人である、高見順が書いた戦時中の日記です。

高見順の戦争日記は、雑誌「文藝春秋」(昭和33年7月号・8月号)に「暗黒時代の鎌倉文士」「敗戦日記・日本0年」のタイトルで一部抜粋が掲載され、1959年(昭和34年)に文藝春秋から単行本が刊行されました。

元の日記は、新聞切り抜き等を含めて原稿用紙約3,000枚のボリュームですが、書籍化されているのは、このうち650枚分です。

雑誌発表分は250枚だったので、書籍化にあたり相当数が追加されていますが、日記の多くを占めている「文学的な感想のたぐい」は総じて省かれているようです。

日記は、昭和20年の1月1日に始まり12月31日に終わります。

単行本刊行時の「著者あとがき(昭和34年3月)」や「あとがきのあとがき/高見秋子(1981年夏)」が収録されています。

なれそめ

高見順の「敗戦日記」は古本屋の棚で見つけたのを買ってきました。

夏になると戦争ものが読みたくなりますが、軍隊や兵士をテーマにした小説は、あまり好きではありません。

あくまでも一般市民の戦争体験を読みたいという気持ちが強い方です。

文学者の日記には、多くの文壇仲間が登場するのも醍醐味のひとつ。

どんな文士の名前が出てくるのかということにも注目しながら読みました。

あらすじ

“最後の文士”高見順が、第二次世界大戦初期から死の直前まで、秘かに書き続けた精緻な日記は、昭和史の一等資料たるのみならず、日記文学の最高峰の一つとなった。

ここに収録された昭和20年の記録は、自己をも押し流しながら破局へと突き進む日本の悲劇を、仮借ない文学者の目をもって、率直に活写したハイライトの部分である。

(背表紙の紹介文より)

本の壺

心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。

蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。

遂に敗けたのだ。戦いに敗れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。(「八月十五日」)

いきなり8月15日の部分からですが、「敗戦日記」のクライマックスは、やはり終戦の瞬間にあると思います。

天皇陛下のラジオ放送を前に、高見順の妻は「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」とつぶやき、高見順本人も「私もその気持だった」と思います。

そして、「ドタン場になってお言葉を賜るくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう」そんなことも感じます。

玉音放送で日本の敗戦を知った後、高見順は街へ出ます。

「新橋の歩廊に憲兵が出ていた。改札口にも立っている。しかし民衆の雰囲気は極めて穏やかなものだった。平静である。興奮しているものは一人も見かけない」という記述からは、記録的な瞬間を自分の目で観察し、あえて文章として残しておかなければならないという、文学者の強い意志を感じました。

そうだ、もう乞食だ。

戦前にはなかったことだ。乞食が木片や吸い殻を拾うのは戦前でもあったが、乞食ではない者が乞食のようなことをするに至ったのは最近の現象だ。そうだ、もう乞食だ。国民の大半は現実的に精神的に乞食におちている。敗戦ということが心にしみる。(「十月十八日」)

高見順は日本国民が人間らしい理性や誇りを失っていく様子を、日記の中で克明に記録しています。

殊に敗戦後は「アメリカ兵にいかにも声を掛けられたそうな、物欲しそうな様子」で「アメリカ兵のいる前を選んで、歩いている娘たち」の姿に、心を傷めている記述が多く登場しています。

日本の敗戦は、街や家屋を焼かれたという物理的な損失以上に、「日本人としての心を奪われた」という、そんな精神的な損失を受けたことに、大きな傷跡が残していたのかもしれません。

「浅墓な浅間しい娘たち」「にがにがしい娘たち」「浅間しい女ども」「なんともいえない恥ずかしい風景」を見ながら、日本人の「文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ」と嘆く作者。

日本の若い女性たちが、勝者アメリカへなびいていく様子は、まさしく、日本の敗戦を象徴するものだったのです。

民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。

浅草へ行くべく東京駅で山の手線に乗りかえようとしてその歩廊に行くと、―罹災者の群だ。まるで乞食のような惨憺たる姿に、息をのむ思いだった。男も女も顔はまっさおで、そこへ火傷をしている。(「三月十二日」)

東京大空襲の直後の街を、高見順は克明に記録しています。

「兄妹連れが一隅にうずくまって、放心したように足もとに眼を落して、じっとしている。両親はどうしたのだろう。腹が減って動けないのだろうか」

「鎧橋のところで、十五、六の女の子が、小さな弟妹を連れてトボトボと歩いていた。その女の子は、片眼をやられ、髪が焼けていた」

「お父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃったんだよ、と大きな声で言った」

一方で、街には「空襲の焼け跡」を見物しようという見物客が溢れています。

高見順でさえも「妻はまだ東京の爆撃跡を全然見たことがないので」、汽車に乗って東京まで「焼け跡見物」に出かけています。

「戦災新しくできた言葉だ」。

本土爆撃が始まって、人々の暮らしは明らかに次のフェーズへと移り変わっていたのです。

読書感想こらむ

戦時中も、高見順は盛んに街を歩き回っています。

そして、観察者としての視点でもって、敗戦前後の街を克明に記録しておこうと努めています。

空襲で激変していく街の様子なども詳細に描写されていて、記録的な価値が高い資料だと感じました。

同じように、戦局の劣勢から敗戦の中で荒んでいく人々の心を書き写すことも、高見順は忘れていません。

むしろ、街が失われていくこと以上に、日本人の心が失われていくことを、高見順は恐れていたのかもしれません。

敗戦後は、日本国民に対してこみ上げる怒りが、要所要所で登場していて、あらゆる意味で、高見順は「貧しさ」というものを実感していたのだと思います。

むろん、それは空襲で罹災することのなかった第三者的な立場から見た傍観者の指摘ととらえることも可能です。

実際に空襲ですべてを失った人たちの心が、どれだけ傷付いていたかを推し量るメーターはない。

まして、生き抜くために必死だった人々を責めることは、誰にもできなかったはずです。

敗戦は過去の価値観を一切消し去るとともに、新しい価値観を日本へともたらしました。

それがおそらく、今僕たちが生きている、この日本の姿なのです。

まとめ

高見順の「敗戦日記」は文学的価値の高い日記です。

街の観察者として敗戦前後の東京を記録した描写は、時に背筋がゾクゾクとすることでしょう。

そして、どの描写も、ひとつの時代の日本の現実だったのです。

著者紹介

高見順(小説家)

1907年(明治40年)、福井県生まれ。

代表作に「如何なる星の下に」など。

「敗戦日記」刊行時は52歳だった。

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ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。