庄野潤三の世界

「故郷」の作曲者・岡野貞一について、庄野潤三「ピアノの音」で学ぶ

「故郷」の作曲者・岡野貞一について、庄野潤三「ピアノの音」で学ぶ

庄野潤三『ピアノの音』では、妻のピアノ練習曲と夫のハーモニカ演奏曲が、物語の軸となっている。

仕方ないから私はそのハーモニカを取って、「故郷」を吹いてみた

夜、ピアノのおさらいが終った妻は、居間でざぶとんを枕に寝ころんでいる私のところへ、「故郷」の楽譜をコピーしたものとハーモニカを持って来る。このハーモニカは、去年のクリスマスに妻が贈ってくれたもの。買った当座はよく吹いていた。(略)ひところ練習をしてレパートリーがふえたけれども、また吹かなくなり、ハーモニカは書斎の本棚の前に置いたきりになっていた。(「二」)

ところで、この夫のハーモニカは、『ピアノの音』連載1回目となる第一章では登場していない。

前年のクリスマスに妻から贈られたハーモニカも、その後、半年以上は、どうやら書斎の本棚の前に放置されていたものらしい。

妻からハーモニカと楽譜を渡されて、「仕方ないから私はそのハーモニカを取って、「故郷」を吹いてみたというのが、庄野さんのハーモニカ演奏の復活であり、始まりであったわけだけれど、このハーモニカ演奏が、本作『ピアノの音』で重要な役割を果たすことになる。

「このごろ、ますます磨きがかかってきた」といい、妻はよろこぶ。

ハーモニカ。夜、ハーモニカ、妻が三曲というので、この数日のように「久しき昔」「ははぎみにまさる」「谷間の灯」を吹き、妻が歌う。「このごろ、ますます磨きがかかってきた」といい、妻はよろこぶ。(「八」)

毎夜のハーモニカ演奏は、こうして3曲が定型となり、精選された3曲が、物語に花を添えることになる。

演奏曲は、基本的に季節の移り変わりを意識したものだが、その時の気分に合わせて柔軟に選択されている。

唱歌や童謡が多く、アメリカやイギリスの民謡が、そこに加わる。

時には、作詞家や作曲家の解説が入ってくるのも、庄野さんらしくて良い。

夜、ピアノのおさらいのあと、妻がハーモニカを持って来て、ハーモニカに合せて、「故郷」を歌う。

岡野貞一(「故郷」の作曲者)のこと。夜、ピアノのおさらいのあと、妻がハーモニカを持って来て、ハーモニカに合せて、「故郷」を歌う。それが日課のようになった。今日、「故郷」を歌ったあと、妻は、「桃太郎さん、桃太郎さんの『桃太郎』も、岡野貞一の作曲」という。『日本の唱歌』(上)明治篇(金田一春彦・安西愛子編・講談社文庫)というのを見ていたら、出ていましたという。ほかに「三才女」「水師営の会見」「日の丸の旗」も岡野貞一。「秋の夕日に照る山紅葉」の「紅葉」も岡野貞一ですという。「大した人だな」といって、二人で感心する。(「三」)

庄野さんの作品では、唱歌や童謡に注目する場面が少なくない。

『ピアノの音』では、「故郷」の作曲者の岡野貞一にスポットが当たっていて、童謡や唱歌に詳しい阪田寛夫が詳しい解説をしてくれることになる。

七十を過ぎた私たちの年代にとってはなつかしい歌がいっぱいある

阪田寛夫に「故郷」や「紅葉」の作曲をした岡野貞一のことを尋ねたら、東京音楽学校の先生をしていて、小学唱歌の教科書を作った人です、鳥取の生れですと教えてくれた上に、前に書いたものがあるので、コピーをとって送りますといった。その文芸誌に載った小説「朧月夜」のコピーが届いた。有難い。この小説は単行本に入れるつもりで手を入れたが、何かの都合でその後の阪田の作品集には収録されていない。(「六」)

庄野さんの作品を読んでいて、こうした文学的な知識を身に着ける機会は実に多いが、それが特別に押しつけがましいものではなく、作家夫婦と一緒に「大した人だな」と言って感心しながら、さりげなく勉強できるところがいい。

岡野貞一が作曲した唱歌は、全部で十二曲あって、「春の小川」「朧月夜」「桃太郎」「紅葉」などは、時代を超えて歌い継がれている名曲だ。

庄野さんは、阪田さんの作品から岡野貞一のことを学び、それをそのまま小説の中に反映させている。

思うに、庄野さんの作品を楽しむことができるかどうかの大きな境目は、脇道の(そして決して少なくはない)文学的エピソードを楽しむことができるかどうかにあるような気がする。

純粋な意味で文学を好きな人であれば、庄野さんの作品は、きっと楽しくて仕方のないものになるはずだ。

自分には「いかにいます」と問いかける父も母もとっくにいない

「いかにいます父母」のところでは、ハーモニカを吹いていて、いつも胸にぐっと来るものがある。父と母が亡くなってから、もう何十年もたった。自分には「いかにいます」と問いかける父も母もとっくにいないのだと思うのである。私が妻の歌う「故郷」のハーモニカ伴奏をこうして夜ごと続けるのも、そういう気持があるからだろうか。(三)

庄野文学の決定的な特徴は、家族(夫婦)のつながりと、正面から向き合っているところにある。

だから、父母や兄弟の存在は、庄野文学においては、常に大きなウエイトを占めている。

唱歌「故郷」が、本作『ピアノの音』の中で、重要な役割を担うことになったのは、決して偶然ではないだろう。

20代の頃から、家族の物語を書き続けてきた庄野さんさからこそ、「いかにいます父母」のフレーズが、誰よりも胸に染みていたのではないだろうか。

そして、その庄野さんも、今はもういない。

僕たちは、ただ、庄野さんの書いた作品の中で、悔いなく生きようとした作家の日常を想像してみるだけだ。

書名:ピアノの音
著者:庄野潤三
発行:1997/4/18
出版社:講談社

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じゅん
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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。