庄野潤三の世界

庄野潤三「絵合せ」間もなく失われてしまう五人家族の軌跡

庄野潤三「絵合せ」間もなく失われてしまう五人家族の軌跡
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「いま、あったかと思うと、もう見えなくなるものであり、いくらでも取りかえがきくようで、決して取りかえはきかない」—日常の何気ない一コマの重要性について、著者(庄野潤三)は「あとがき」の中で、そんな風に綴ってみせる。

本書「絵合せ」は、「昨年、「群像」に発表した「絵合せ」を中心にして、その後の三つの短篇と、これまで単行本に入っていなかった作品から、いくらかつながりのありそうな四篇を選んで、一冊にまとめてみた(あとがき)」作品集だ。

表題作「絵合せ」は昭和45年11月号の「群像」掲載で、昭和34年3月号の「婦人之友」掲載の「父母の国」が最も古い。

前半の「絵合せ」「蓮の花」「仕事場」「カーソルと獅子座の流星群」が家族小説、「鉄の串」が友人との交流を描いたもの、後半の「父母の国」「写真家スナイダー氏」「グランド・キャニオン」がアメリカ留学中の体験をもとにした作品というように、庄野文学の大きなテーマを適度に楽しめる作品集になっているのではないだろうか。

家族小説としては、長く庄野文学の中に登場してきた長女「和子」の結婚前夜に当たる時期のもので、5人家族の物語が大きな節目を迎えようとしているところに注目したい。

平凡な人生における「かげかえのないものの存在」

旅立つ若者がいる。もうすぐ出発しようとしている。あなたが行ったら、どんなにこの谷間はさびしくなるだろう。そんなに急いで別れを告げないでほしい。そういうふうに娘が頼んでいる。(「絵合せ」)

この作品集最大の注目は、何といっても表題作の「絵合せ」である。

「あとがき」の中で著者は、「もうすぐ結婚する女の子のいる家族が、毎日をどんなふうにして送ってゆくかを書きとめた小説で、いわば「家族日誌」のひとこまである」と綴っているが、そのすぐ後で「確かに結婚というのは、人生の中で大きな出来事に違いないが、ここに描かれている、それひとつでは名づけようのない、雑多で取りとめのない事柄は、或は結婚よりももっと大切であるかも知れない」と書き足すことを忘れていない。

「和子と明夫と良二」という三人の子と、その親である「井村とその細君」によって構成される五人家族の日常風景が、他愛のない、しかし、忘れてしまうには忍びのないエピソードによって綴られていく20篇の断片的な物語は、平凡な人生における「かげかえのないものの存在」について考えさせてくれる。

良二が学校の授業で習った「赤い河の谷」という英語の歌の歌詞を、和子は教育実習先の学校で入手してきており、良二は和子と一緒にその歌を合唱する。

「そんなに急いで別れを告げないでほしい」という歌詞を聴きながら、父は何を思っていたのだろうか、

庄野文学の家族小説において、もちろん、そんな余計な解説は一切書かれていない。

日々の日常生活を重視し続けた庄野文学

まだ私はこの家の子供です。みんなと一緒に御飯も食べるし、片附けもするし、掃除もします。夜になると、このベッドで(もう九年も寝ている私のベッドで)心安らかに寝ているのです。どうか、そんな気の早いことを二人で話さないで下さい—和子のいった「蚤」とは、どうやらそういう意味もあるらしい。(「絵合せ」)

結婚式まで残り二週間となり、新居への引っ越し準備をせっせと進めている和子の横で、父と母は、和子の部屋を「ここは図書室になるな」「誰か泊まって頂く時には、お客さんの寝室になりますわ」などと話している。

すると、和子が「蚤が出るよ」とつぶやくのだが、そのとき、父である井村は、「蚤が出るよ」とつぶやいた和子の気持ちを察してみせる。

「絵合せ」は、「もうすぐ結婚する女の子のいる家族が、毎日をどんなふうにして送ってゆくかを書きとめた小説」ではあるけれど、「娘を嫁がせる父の寂しさ」だとか、「姉を失う弟たちの悲しさ」などというのは、この小説では大きなテーマとはならない。

それは、「結婚」というセレモニー以上に、日々の日常生活を重視し続けた庄野文学の特徴であるわけだが、「娘を嫁がせる父の寂しさ」は、日常生活の断片的なスケッチの中で巧みに描かれている。

センチメンタルな言葉は登場しなくても、嫁ぐ娘と残される家族の思いは、日々の暮らしの中にしっかりと、その軌跡を残している。

著者は、間もなく失われてしまう5人家族の日常をスケッチすることで、長女が結婚していくまでのわずかな時間の軌跡を残そうとしたのだろうか。

書名:絵合せ
著者:庄野潤三
発行:1971/5/24
出版社:講談社

ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。