日本文学の世界

夏目漱石「三四郎」に登場していた!?「朧月夜」の作曲者・岡野貞一

夏目漱石「三四郎」に登場していた!?「朧月夜」の作曲者・岡野貞一
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『ピアノの音』の中で、庄野さんがハーモニカを吹き、妻が歌った文部省唱歌「故郷」の作曲者は、岡野貞一である。

庄野さんは、唱歌や童謡に詳しい友人の阪田寛夫から、岡野貞一が東京音楽学校の先生だったこと、小学唱歌の教科書を作った人であること、東京の中央会堂でオルガン奏者として勤めていたことなどを知る。

阪田さんは、「朧月夜」の作曲者でもある岡野貞一に興味を持っていて、遺族に話を聞きながら、「群像」1989年10月号に「朧月夜」という題名の作品を発表している。

また、この作品を書くに至った背景などについては、『どれみそら 書いて創って歌って聴いて』(1995年、河出書房新社)の中で、詳しく紹介されている。

ところで、『どれみそら』の中に、注目すべき記述があったので、ここに書き留めておきたい。

夏目漱石の「三四郎」の中に、岡野貞一と深い関連がある部分を見つけましてね

この歌に強い印象を受けたのは戦争の末期、私が十八歳の頃でした。当時は作曲者が誰か、はっきりしていませんでしたが、約三十年後にやっと作曲者が特定されました。その岡野貞一を調べていくうちに、僕の好きな作品のひとつだった夏目漱石の「三四郎」の中に、岡野貞一と深い関連がある部分を見つけましてね、それもなんだか嬉しくて(笑)。「朧月夜」という小説を書きました。(「どれみそら」)

阪田さんは、「夏目漱石の「三四郎」の中に、岡野貞一と深い関連がある部分を見つけましてね」と述べているが、「三四郎」と岡野貞一との間に、どのような関わりがあったのだろうか。

やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌というものだろうと考えた。

美禰子の会堂(チャーチ)へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊(ストトレイ・シープ)。迷羊。雲が羊の形をしている。(夏目漱石「三四郎」)

これは、漱石の「三四郎」を読んだ人でなければ分からないかもしれないが、物語のラストシーンで、主人公の三四郎は、恋に破れた相手の女性、美禰子へ最後の挨拶をするために、彼女の通う教会堂を訪れる。

教会の中からは讃美歌の音色が流れ、三四郎は美禰子と過ごした楽しい日々を振り返る、そんな場面だった。

この後、三四郎は美禰子に「結婚なさるそうですね」と問い、美禰子は「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」という有名な言葉をつぶやいて、二人の仲は決定的に終わってしまうという、非常に有名な名場面である。

阪田さんは、ここで教会の讃美歌に注目している。

というのも、三四郎や美禰子が暮らしていたのは、本郷界隈であり、美禰子が通っていた教会も、昔の本郷中央会堂だと思われるからだ。

これぞまぎれもなく昔の本郷中央会堂だ!と木下順二氏から教わりました

この小説の最後のあたりで、[会堂へいった美禰子を三四郎が外で待っている]という描写があります。借りていたお金を返して二人の仲も終わる。その文中の「会堂」というのは、これぞまぎれもなく昔の本郷中央会堂だ!と木下順二氏から教わりました(小説「本郷」)。

その頃、本郷中央会堂でオルガンの演奏をしていたのが、「故郷」や「朧月夜」の作曲者である岡野貞一だった。

つまり、夏目漱石が「三四郎」で描いた教会の讃美歌のシーンは、岡野貞一がオルガンを演奏していたことが十分に想像されるということを知って、阪田さんは非常に驚き、感動したということらしい。

「ああ、美禰子の歌声の背景に、岡野先生のオルガンが響いているのだな、作者の夏目漱石もきっと、このオルガンの音を聞いたのだろうな」と、「三四郎」の一場面の描写に、阪田さんは思いを馳せている。

庄野さんの『ピアノの音』から、阪田さんの著作を通して、岡野貞一と夏目漱石の関りにまで話が及んでしまった。

文学の世界は、これだから楽しいと思う。

書名:どれみそら 書いて創って歌って聴いて
著者:阪田寛夫
発行:1995/1/20
出版社:河出書房新社

ABOUT ME
やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。