松田解子さんの「乳を売る・朝の霧」を読みました。
久しぶりのプロレタリア文学、すごく面白くて一気読みしました。
書名:乳を売る/朝の霧
著者:松田解子
発行:2005/10/10
出版社:講談社文芸文庫
作品紹介
「乳を売る・朝の霧」は、松田解子さんの作品集です。
講談社部文芸文庫オリジナルの作品集で、戦前から1980年代まで幅広い時代の作品が収録されています。
わが子に与えるべき母乳すら売らねばならぬ貧しき女性の痛切な姿を刻む「乳を売る」、女だけの催し“五月飯”の日の老女らのユーモラスな振舞いを通し、哀しくも逞しく生きる寒村の女を力強く描いた「朝の霧」等、戦前・戦中の七作品に、自らの文学の核となった少女期を回顧した晩年の作二篇を併録。プロレタリア文学に母性という視点を加え、虐げられてきた女性の新たな目覚めを追究する著者の精選作品集。毎日出版文化賞受賞。(カバー文)
あらすじ
松田解子さんは、貧困や雇用、女性差別などの社会的な問題と向き合う作品を手掛けた、いわゆるプロレタリア文学の作家です。
高橋秀晴さんの解説では、「『逃げた娘』(「文芸公論」1928年5月号)は、松田解子が初めて書いた小説である」「観念的傾向が強いものの、性、鉱山、雇用、組合闘争といった後年の主要なテーマが多く埋め込まれている」と紹介されています。
目次///逃げた娘/産む/乳を売る/風呂場事件/姉ごころ/師の影/朝の霧/山桜のうた/生きものたちと///解説(高橋秀晴)/年譜(江崎淳)/著書目録(江崎淳)
なれそめ
講談社文芸文庫は、あまり現代的とは言えない作家や作品を多く扱っています。
当然、それほど多くの読者を抱えているとも思われないためか、版を重ねて出版されることは、あまりないようです。
つまり、版元品切れとなっているため、一般書店で入手することが困難なものが多いということです。
だから、講談社文芸文庫の書籍は、古本屋で買うことが多いのですが、それにしても、入手困難なものがほとんどで、一部には人気があるということなのか、古書価は決して安くはありません。
松田解子さんの「乳を売る・朝の霧」も古本屋で見つけたものです。
不勉強ながら、松田さんの作品を読むのは、今回が初めてでした。
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、僕の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
その眼は肉に飢えた野獣の眼であった。
光の破片さえ、人間の咳一つ、そこには無かった。突如Sは立ちどまって後をふりかえった。その眼は肉に飢えた野獣の眼であった。たくましい双腕が敏捷に躍って、うちふるえる少女を力限りかき抱いてしまった。美恵子は声量と力のすべてを搾って暴れ叫んだ。けれど遠くで、ハッパ(ダイナマイトの爆音)が、雷のように響いただけで、人の声はなかった。「殺すぞ、黙れ!」(松田解子「逃げた娘」)
「文芸公論」1928年(昭和3年)5月。
17歳になったばかりの美恵子は、貧しい家計を支えるために、鉱山で働き始めます。
若くて美しい美恵子は、「色狂い」と噂される現場主任Sの標的となりますが、全力で抵抗します。
しかし、S主任は、同じ鉱山で働く美恵子の両親にも圧力を加え、力ずくで美恵子を自分のものにしようと企てるのですが、、、
女性差別、セクハラ、性暴力、貧困、雇用問題。
短い物語の中に埋め込まれたテーマは、実は現代社会においても、まだ解決していないという、根の深い社会問題なのです。
「生まれろ、かれがいなくたって生まれてしまえ。どんなにでも働いて育ててゆくから」
貧民窟のトタン屋根も、耶蘇の学校も、小路のドブ板も、共同便所も、そして、クソバエの羽さえも、それぞれの色とにおいを、そんぶんに発散している。そのなかを、かの女は、まるで刑でもいいわたされた囚人のように頭をたれて歩いていた。「おかあさまでいらっしゃいます。もう五ヵ月ごろかと思います」(松田解子「産む」)
「読売新聞」1928年(昭和3年)6月4日。
妊娠した女性が、その妊娠をどれだけ恐怖としてとらえていたか。
「貧民窟のトタン屋根も、耶蘇の学校も、小路のドブ板も、共同便所も、そして、クソバエの羽さえも、それぞれの色とにおいを、そんぶんに発散している」という描写から想像される産婦人科の環境が、「かの女」の生きる環境そのものを物語っています。
そして、そのような環境の中で、子供を産み、育てるということが、どれだけ辛く、苦しいものであるかということが、暗黙のうちに示されているようです。
「生まれろ、かれがいなくたって生まれてしまえ。どんなにでも働いて育ててゆくから」。
「失業者に職を!」と書かれたビラを持ったまま、帰ってこない「かれ」。
「かの女」の強い決意は、失業者を放置する冷酷な社会に向かって放たれたものだったのかもしれません。
「自分の子どもが死んで、残念じゃない?」「だって、みんな、運だもの」
かの女は耳までまっ赤になり、くちびるをふるわせ、先刻しぼりきったはずの右乳房を取り出して桃色になるほどもみ、もういちど自分の手でしぼりだした。と、二、三度、奇跡的に、五条ばかりの乳腺が噴いた。それから左を。そして右を。しかし、かの女の『神』も、いまは無力だった。かの女の乳房は、—もともと数えの三歳の子の乳が今までもったのが不思議だ。—いまはまったく涸れはててしまったのだ。(松田解子「乳を売る」)
「女人芸術」1929年(昭和4年)8月。
貧しい「かの女」は、生活を支えるために、金持ちの家で女中となり、「若さま」に乳を与える乳母として働きます。
そこでは、自分の子どもに乳を与えることは許されず、乳は優先的に「若さま」のものでした。
同じ境遇のある女性は、乳母に専念するため、自分の子どもを病院に預けて働いていましたが子どもは「3か月後に亡くなった」と言います。
「自分の子どもが死んで、残念じゃない?」「だって、みんな、運だもの」
そう交わす彼女たちの会話の中には、苦しい貧困の生活の中で、無力にも似たあきらめの感情が、彼女たちの心を支配しつつあることを物語っています。
貧困層の女性たちが、どのような思いで子どもを育てていくのか、前記「産む」の続編と考えても良いようです。
読書感想こらむ
日本のプロレタリア文学を代表する作家といえば小林多喜二が有名ですが、僕は全集を所蔵しているほど、小林多喜二が大好きです。
それは、プロレタリア文学(いわゆる「プロ文」)が好きというよりも、北海道で生まれ育った作家としての小林多喜二という人間に興味があるといった方が良いでしょう。
プロ文について、僕はほとんど何も知らないのと同然だし、プロ文に特化した読者でありたいと考えることもありません。
けれども、今回、松田解子さんの「乳を売る・朝の霧」を読みながら、プロ文の面白さというものを感じたことも、また事実です。
「弱者」としての暮らしを受け入れるだけではない、力強い展開があることで、希望に満ちた作品として成立しているような気がしました。
まとめ
「乳を売る・朝の霧」は、松田解子さんの作品集。
小林多喜二と同時代のプロレタリア文学を体験できる。
セクハラや雇用問題など、現代社会にも通じるテーマにも注目したい。
著者紹介
松田解子(小説家)
1905年(明治38年)、秋田県生まれ。
戦前は「日本プロレタリア作家同盟」で活躍。
2004年(平成16年)、99歳で逝去。