いろいろの世界

小宮豊隆「札幌まで」北海道に骨を埋めた開拓者たち

小宮豊隆の「札幌まで」は、昭和13年12月に書かれた、短い札幌紀行文で、「きつつき」(昭和16年・中央公論社)に収録されている。

それは「この秋、札幌まで行って、生れて初めて北海道を見て来た」という一文で始まる紀行文だが、著者(小宮豊隆)は、大きく三つの賞に分けて、札幌(というよりも北海道)の自然と文化について論じている。

最初の章は、北海道の植生についての所感で、かつて植物学者のモーリッシュは「北海道に渡ると動物と植物とが、本州と随分違って来る」と、著書の中で述べているので、著者も函館から札幌まで沿線の植物を注意して観察したところ、「不思議な事は、私の眼に触れたものは、すべて私が本土で馴染んでいた植物ばかり」だったという。

札幌で専門の学者に聞いてみると、「北海道と本州との植物は、そんなに違っていない」と言う。

「ブランキシトン線」についても、「此頃では段段あやしくなってきた様子だという返事」だった。

次に、著者は「函館から札幌までの沿線で、もう一つ私の気がついた事は、汽車の窓から鎮守の森だの寺の屋根だのが殆んど見えないという事と、墓地が殆んど見えないという事とだった」と述べて、北海道に鎮守の森や墓地が少ない理由について考察し、自論を展開してみせる。

第二章は鎮守の森で、第三章は墓地についての考察だから、「札幌までは」は、純粋な紀行文というよりも、著者が来道した際に感じた不思議な違和感に対する所感のようなものと言うべきだろう。

北海道開拓を進めた寺院

函館から札幌までの間は、汽車が特にそういう所計り通る為かも知れないが、鎮守の森も、寺の屋根も、殆んど見かけない。見かけてもそれは、みんな借物かなぞのように、ちょっとその辺に載っけてある感じである。(小宮豊隆「札幌まで」)

著者は、北海道に寺院を見かけない理由について、この後、考察していくことになるのだが、地元の人間には当たり前のことも、旅人には新鮮に感じる場合がある。

著者の場合、それがお寺と墓地だったのだろう。

もっとも、寺院は、北海道開拓を主導した主要な組織の一つであり、道内各地には明治初期から寺院が建設されていた。

その数が内地に比べて多いか少ないかについては統計上の問題になるが、「殆んど見かけなかった」という著者の所感は、あくまで沿線に限ったものだった可能性がある。

「見かけてもそれは、みんな借物かなぞのように、ちょっとその辺に載っけてある感じ」だったのは、当時の北海道の(特に郡部の)建造物の多くに共通の印象だったのではないだろうか。

「一旗揚げて故郷に帰る」から「骨を埋める」へ

北海道の、私が嘱目した沿線に、墓地が殆んどなかったという事は、こういう土地に移住してきた人達が、此所の土にはなりたくない、成功したら故郷に帰りたい。此所で死んでも骨は故郷に埋めたいというような、ほんの浮気な腰掛尻で、此所で働いているのだという事を意味するのではないかと思う。(小宮豊隆「札幌まで」)

開拓初期の時代、移住者の人々が墓を作らなかったということは事実らしい。

北海道は永遠に住み着く場所ではなく、「一旗揚げて故郷に帰る」ことを、誰もが夢見ていたのだ。

移住者たちが、北海道に「骨を埋める」ことを覚悟したのは、明治末期以降のことで、開拓地は既に2世の時代に入りつつあったことだろう。

もっとも、著者が来道したのは昭和13年のことであり、この頃は既に、北海道に骨を埋める人々が多数あったのではないだろうか。

実際に墓地まで行って、古い墓の墓碑を読んでみると、大正時代以降の墓は容易に見つかることを考えると、「墓地に至っては、六時間の間に、やっと一つしか見当らなかった」という著者の感想は、墓地の立地上の問題のような気がする。

内地を旅すると、小さな集落が次々と現れては消えていくことがあって、そんな集落の端っこには、必ず小さな墓地がある。

北海道の墓地は山中にあることも多いので、車窓から眺められる墓地というのは、今の時代でも、あまり見かけることがないだろう。

こうした紀行文の貴重なところは、事実の指摘というよりも、新鮮な感覚で地域を眺めるということにある。

願わくば、自分の街であっても、いつでも旅しているように新鮮な視点で見つめていたいものだ。

書名:現代日本紀行文学全集(北日本編)
著者:小宮豊隆
発行:1976/8/1
出版社:ほるぷ出版

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じゅん
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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。